6話 6
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這入るときよりは数等楽々と、丸の内の第十三号館の表に出た。
いま速水輪太郎からことづかった手紙を「深夜の市長」のところへ持ってゆくのが本来だったけれど、冷い風の吹く暗い往来へ出てみると、急に行くのが億劫になってきた。考えてみると、今日は一日勤め先でかなり運動のつく仕事をし頭脳の疲れる仕事をした。そのうえ麻雀を何回もやったし、深更に及んでは、お照という酔っぱらいの虎御前に引きずり廻され、それから只今のようなわけで城廓のような建物の中へ忍び入ったり、高い塔に攀じのぼって怪科学者と押問答をやったりして随分まめに動きまわった。どう考えてみたって、これで疲れなかったり、億劫がらなかったなら人間じゃない化物である。おまけに今夜はいつもの習慣によって夜の小睡眠もとっていない。こんなことでは今に身体を壊すにきまっている。今夜はこれ位にして、早々うちへ帰って睡るにしかずだと思った。だから「深夜の市長」への伝達は明日――といっても、本当はもう既に今日の領分に入っているが――にしようと決心した。それでまた元の丸ビル前まで出て、丁度そこへ流してきた円タクを呼びとめると、浅草まで五十銭でゆくように交渉して、その中へ乗りこんだ。深々としたクッションの中に身を埋めながら、窓越しに寝静まっているT駅を望んだ刹那、僕は忘れていたことを突然想い出して俄かに不安の念に駆られた。それはあの丸の内十三号館内の怪塔の上に仕かけられた暗視機の中を覗きこんでいる怪科学者速水輪太郎の黄色な顔のことであった。
このまま我が家へ帰れると思うと、僕は急に気がゆるみ、車上にトロトロと眠ってしまった。
「旦那、どの辺まで参りますか」
と、突然声をかけられて僕はハッと目覚めた。途端にクシーンと大きな嚏が一つ出た。
ハッキリしない眼をこすりながら、外を見てみると、なんのことだ。円タクは丁度都合のよい吉野町通りへ滑りこんだところだったので、あわてて大声をあげ、車を停めさせた。
外へ出た拍子に、また嚏が、たてつづけに二つも出た。三月の末だというのにいよいよこれは風邪をひいたかなと苦笑しながら、通りを左に曲った。懐しい――というほどでもないが、わが家はその先をもう一つ右へ曲ったところにあるのだった。
重い靴をゾロゾロ舗道の上に引きずりながら、わが家の前に帰って来たとき、僕は、
「オヤッ、――」
と叫んで、その場に歩みを止めた。それは隣りの空き家の中にチラリと灯が見えたように思ったからだった。空き家の中に明りがあるなんてこいつは怪しいと思い、もう一度よく見てやろうと、眼をこすりこすり頤をつきだして幾度も見直したが、こんどはすこしも灯らしいものが見えなかった。
「寝ぼけ眼のせいかしら?」
と、それでも怪訝に思いながら、我が家の締りを外して、中に入った。電灯をつけてみたが、留守中別に異状はあった様子もない。まず安心と思い、それから持ってかえった証拠物件を包んだボロ布包みを、本箱の書物の空きケースの中に押しこみ、また元のように書棚に入れて置いた。それがすむと、早々寝衣に着換えたが、なんだか妙に気になって仕方がない。そこで勝手元へ立って、揚げ板を暫く眺めているうちに、一つ妙案が浮んできた。そこでまた居間へ引返すと、そこにあったチャブ台を抱えて、勝手元の揚げ板の上に置いた。それからまた引返して、こんどは長火鉢をエンヤラヤッと抱えあげ、ウンウンいいながら、これもまた勝手元の揚げ板の上に置いた。その次には、薬罐をさげていって長火鉢の上にかけた。それから書斎の襖を開けて、そこに積みあげてあった重い原書や百科辞典や、それから「新青年」、「ぷろふいる」、「探偵文学」、「月刊探偵」などという古雑誌までを幾度も両手に抱えて、チャブ台の上にだんだん重ねていった。そして最後に、その積みあげた本の上に愛蔵のギターをソッと置いて、この土木工事は終った。こうして置けばもう大丈夫である。もしや隣家に何者かが忍び入り、床下をもぐってこの勝手元の揚げ板を下から押しあげようとしても、上には長火鉢や薬罐やチャブ台や古雑誌などが、ズッシリと載っていて、ちょっとやそっとでは持ち上らない。なおそれでも頑張って下からゴトゴト押しあげていると、上に載っているギターが徐々に傾いてやがて一大音響とともに板の間に転落する。そうするといかに寝坊の僕でも必ず眼を覚すにちがいがない。これで僕は今夜、枕を高うして睡られると悦んだ。
寝床へ入ってウトウトすると、夢心地に誰かシクシクと泣き声を立てているのが耳に入った。
「オヤッ、――」
と思って床を蹴って起きあがった。それからなおも聞き耳を立ててみたが、その後は一向に泣き声が聞えない。
「――どうも変な日だなア。ことによると、昨夜からあまり神経を使いすぎているので、急性神経衰弱症というのにでもなったのじゃあるまいか。……」
と思った。だが、もう、その後は泣き声が聞えないと分ると、また急にねむたくなってきた。こんなにねむくなるようでは、神経衰弱症も可笑しいぞと思いながら、再び寝床の中にずるずると潜りこんだ。そこまでは覚えているが、後はすこしも記憶がない。
どの位睡ったのか、自分にはよく分らなかったが、何かの物音に目を覚し、薄眼を開いてみると、眩しいばかりに朝日がさしていた。天気がいいにしても、あまりに明るすぎると思って、本格的に両眼を開いてみると、なんのことだ。閉めて置いたと思った窓の雨戸がすっかり明いていて、障子の上にはあかあかと朝日が照り栄えているのだった。
――これは不思議!
と、床の中でハッと顔色をかえた瞬間、障子の傍へ衣ずれの音も高く現われたのは若い女の立姿、――
いや、そのときくらい驚いたことはない。いつの間にやら自分の家の中に、若い女が入りこんでいたのである。昨夜はたしか各室――というほどのものでもないが、ちゃんと見廻り、人気のないのを見定めた上、床についたのだったが……。
「おや、もう目が覚めたの。もっと寝ていなくていいのウ」
ニヤニヤと笑いながら、こっちへ向いた女は、誰あろう虎御前こと丘田お照だったのには、二重に驚いた。
――やったな。――
と思って敷居越しに、勝手元を覗きこむと、揚げ板の上には、長火鉢だのチャブ台だの古雑誌だのギターまでが、物々しく積み重なっている。完全に昨夜のままの光景である。
するとこいつは妙な理窟になって来た。
締りのあるところからは絶対に入れない上に、勝手元の揚げ板の下からも絶対に入った形跡がないことになる。この入口のない家の中へ、お照は何処から潜りこんできたのだろう。こんな奇怪なことはなかった。奇怪だと思うと、明るく障子を照らしている太陽の光が、かえってたいへん恐ろしく感じられたのだった。うわッ、雨戸をもう一度たててくれ――と、叫びたいような気持に襲われた。
お照はこっちの恐怖にも一向気づかぬらしく、無遠慮に僕の寝床の方に寄ってきた。
「君はなんだってまた僕のところへやって来たのだ。うん、それより君は、何処から僕の家へ潜りこんだのだ。さあそれから云いたまえ……」
と睨めつけると、お照は酒の気のない黄色な顔をずっと前の方に寄せてきて、
「そうたびたび床の下などを、誰が潜るものですか。第一潜って来たって、あれじゃ入れないじゃないの……」と揚げ板のうえの一件を大形に指さし、「表の戸を開けて入ってきたのですよオーだ。なんですねえ、貴郎もだらしがない。昨夜帰って来て、戸締りもしないで……。きっとグデングデンに酔っぱらって帰ってきたのでしょう」
なんのことだ。表の懸け金を懸けることを忘れていたのか。あまりの疲労と睡さについ忘れてしまったのであろう。なんだ、それならばお照にかぎらず、誰でも表から入って来られたであろう。だがまだ変なことが残っていた。昨夜隣りの戸の隙間から見た灯影と、それからあとになって、不図耳に入った泣き声はどう解釈したならばいいのであろうか。
それをお照に尋ねてみると、彼女は大きな身体をぐっとくねらせ、隣家に接した壁の方を憎々しげに睨みつけて云った。
「いやに小生意気な女ですよ。……どうせ真ともな女じゃないわ。あんな夜更けに引越してくるなんて。つまり夜逃げをして来たわけなのよ」
そういってお照は、軽蔑の色を浮べ、隣家の方に向って二重頤をしゃくった。
引越し? するととにかく戸の隙間からチラチラした灯影も女の泣き声の正体も分ったというものだが、そんなに遅く引越して来た女とは一体何者であろうか。昨夜お照の話では、隣りは畳を剥いであったというのに、昨夜遅く越して来た隣家の女は、夜逃げをしてきたにしろ、一体何の上に睡ったことであろうか。僕はまだ見ないけれど、その女の身の上に、いたく同情を禁じ得なかった。
「……それで、あんたア」と、お照は急に生真面目な顔付になって、僕の身体を蒲団の上から突いた。
「あんたは昨夜、輪太さんから手紙かなんか預りゃしなかった」
――ああ、そんな用事かと、僕は安心した。「うん、預っていたとしたら、どうしようというのかネ」
「預ってきたのなら、どうして昨夜のうちに『深夜の市長』さんに渡さなかったの。あの方に頼まれて、そんなに統制を乱したのは、あんたが始めてだわ。いけないじゃありませんか。『深夜の市長』さん随分お待ちかねだったのよ」
「なんだ、そんなことか。僕は今夜、『市長』に渡すつもりだったが……」
「もっとも輪太さんともあろうものが、あんたのようなひとに頼んだのも、そりゃよくなかったんだけれど。しかしこれだけは『市長』さんの言伝ですから、ちゃんとあんたに通じて置くけれど、警察ではあんたのことをしきりに探しているそうだから、注意をしていろだってさア。……聞いているのあんた。ねえ、よくって、注意をしていろというのが分った?」
「……ほう、警察の手が、僕の上にねえ……」
僕はそれを聞いて、全身に水を浴せかけられたように思ったのである。こいつはいよいよ勤め先を縮尻るかな。
「ねえ、お照さん、僕は至急に『深夜の市長』さんに会いたいんだけれど、亀井戸のあすこのところに居なさるだろうかなア」
「ううん。……」
といって、お照は顳※を振った。
「じゃ、何処へゆけば逢える?」
「駄目駄目。昼間は駄目よ。どこにいらっしゃるか、誰も知っているものなんかないわ」
「なに、昼間は所在が知れないというのか」と僕は問いかえした。「一体あの『深夜の市長』という人は、どんな素性の人なのかい」
「まあ、――昨夜も妾に、そんなことを聞いたじゃないの。答は同じことよ。そんなに知りたければ自分でもって尋ねてみるといいわ」
「話して呉れるかネ」
「話しちゃ呉れないわ」
女は、妙に震えた声で、まるで歌でも歌うように、それを云った。
寝床の中から、一向に可笑しくない掛合咄をしているうちに、思わず時間が過ぎた。僕は驚いて、お照に部屋から一時退いて貰うと、寝床からピョンと起き上った。それから大急ぎで洗面をして、洋服に着かえた。そして帽子をつかんで、玄関に飛び出そうとすると、
「ああ、あんたは御飯を食べてゆかないの」
と、お照は僕を呼びとめた。
振りかえって見ると、いつの間にか僕の万年床が奇麗に片づいていて、畳の上がひろびろとしていた。僕はなぜかこのとき、昨夜十銭洋酒店「ブレーキ」で見かけた何とかいった女の子のことを思いだした。あの児は、このお照の生んだ子供なのであろうが、年齢のせいとはいえこの莫迦に世帯じみた女の気持を発見して、恐らくアルコールの気のないときは、この女はいかにも善良であり、あの育ち損ったような女の子も、さぞかしこの母親から愛撫せられていることであろうと、不図そんなことを思った。……
「もう時間が遅いので、食べている隙がないんだ。それに……米も、それから味噌も生憎切らしているのでねえ」
女は、そうかそうかという風に、わざと剽軽な面を作って肯いた。
「それから、今夜はきっとあの人にあの報告を渡す。……こいつは表の鍵だ。あとで閉めて、預っといておくれ。『ブレーキ』でまた逢おうぜ。……」
そう云い捨てて、僕は外に飛びだした。なんだか、急に朗かになったような気持だった。僕はうしろをふりかえってみた。すると、隣りの家の格子窓から、凄い引き眉毛をした、やっと肩あげの取れたばかりのような若い女が巻煙草を口に銜えて、こっちを見ていた。そしてパッタリ僕と視線を合わすと、彼女はピシャリと障子を締めてしまった。一体彼女は何者だろう? まるで鼠のように、チョロチョロ出たり引込んだりする。一方お照の方を見ると、彼女は玄関の上り鼻に太い身体を丸く曲げてこっちを見守っていたが、ニッと笑ってから、片方の手をあたりに憚るようにソッと振って見せた。