2話 二 黒檜山
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腰に握飯を帶びたれば、夜までは人家なき山路も、安心して歩ける也。大沼の北端より、直ちに五輪峠を越えて、赤城山を北に下らむと思ひしが、雄拔なる黒檜山を仰ぎ見ては、上らずには居られず。赤城神社より頂上まで一里の程と聞く。歸りは、頂上より直ちに五輪峠に下らば、ほんの一里だけの迂路に過ぎざるべしとて、石標に登り口を教へられて上る。しばし深林の中を行き、頂上を左の方、咫尺の上に見ながら、路は右方に轉じて蛇行す。赤城山もこゝに至りて、はじめて山路らしく、又深山らしく思はるゝ也。峯背をつたひて、いよ/\黒檜の肩ともいふべき處に到れば、路いよ/\嶮なるが、それも、しばしの程にて、やがて頂上に達す。頂上は、東西に細長くして、東端に二つ三つの石のほこらあり。西端には、木のほこらあり。中央に測量の三角點あり。この頂上は、唯躑躅がぽつ/\生ひたるのみにて、どこにても、四方の眺望ひらけたれど、まづ/\こゝにてとて、三角點に踞して休息す。大沼、今や脚下に在り。南には、地藏ヶ嶽、湖を壓して高し。東南には、小沼を見る。位置は大沼より一段高けれど、大きさは小沼の名に負ひて、大沼の五六分の一に過ぎず。長七郎山、その傍に峙つ。高さも小沼に相應す。西南には、鈴ヶ嶽、群峯を壓して劍立す。眼界の及ぶ處はこれだけにて、四方すべて霧にかくれたり。
黒檜、地藏、鍋割、荒、鈴を赤城の五山と稱す。これ赤城山彙のおもなるもの也。鍋割、荒の二山は、きのふ白川の溪を遡りし時、右に仰ぎたり。黒檜は、湖を隔てて仰ぎたり。今われ黒檜の絶頂に在りて、左に地藏を見、右に鈴ヶ嶽を見る。鍋割、荒山は、地藏に遮らる。遮られずとも、他の奇なし。黒檜、地藏、鈴の三山は、各特色あり。地藏は大、黒檜は高、鈴ヶ嶽は鋭也。
日は赤々と照りたれど朝の風寒し。枯木を焚きて暖を取る。火の熾んにあがるを見るは心地よきものなるが、山上に火を焚くは、心地よき度を越して痛快也。まして、風寒くして、路伴なきに於てをや。今や余は數尺の火炎を相手にして、人界を六千尺の下に見下す也。
ふと眼を放てば、南方雲解けて、一の高山、天半に見え初めたり。その煙を噴けるは、たしかに是れ淺間山也。雲は次第に西方に向ひて解けて、淺間につゞける諸高山、次第にあらはれ來たる。草津の白根山も、その中にあるべし。やゝ近く西北に當りて、頂の二つにわれたる高山も見ゆ。圖を按じて、その武尊山なるを知る。この具合ならば、日光の男體山が見え出すかも知れず、筑波も見え出すかも知れず、富士も見え出すかも知れず、まあ/\待つて見むとて、火にあたりながら、圖を按じて、眼を四方に馳す。
されど、思ひ通りには、雲は霽れず。始めの程は、北麓が雲に鎖されたり。その雲去るかと思へば、雲は南麓に來たる。南麓霽るゝかと思へば、雲また北麓に涌き、近く我に及ばむとして及ばず。其雲も終に去れり。頭上は、はじめより、どちらを見ても雲無し。されど目ざす方面は、容易に霽れむともせず。かくて十二時近くなりければ、辨當とり出だして食ふ程に、うれしや日光方面の雲霽れたり。連山の中にて、最も高きが、熟知せる男體山也。男體山も、この方面より見れば、連山の彼方に、兜形の頭を出だせるのみにて、淺間の美觀に比ぶべくもあらず。されどわれは、他の方面に於ける日光の美觀を知り居る也。日光も、淺間も、海拔八千尺以上に及ぶ。關東の高山として、東西の兩大關也。
午食終らば、山を下らむと思ひしが、男體山の見え出したるに、心又動き、おそくならば今一度湖畔に宿りてもよしと決心して、頂上にありしこと凡そ五時間の久しきに及べど、雲の模樣は變りさうにも見えざれば、終に斷念して湖畔に下り、今宵は、湖西の宿屋に投ず。昨日宿りしあたりを大洞と稱し、こゝを沼尻と稱す。