2話 瓜の涙(2)
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人は何とも言わば言え……
で渠に取っては、花のその一里が、所謂、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅の霞に乗って、あまつさえその美しいぬしを視たのであるから。
町を行くにも、気の怯けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、――誰も知るまい、――ただ一人、秘密の境を探り得たのは、潜に大なる誇りであった。
が、ものの本の中に、同じような場面を読み、絵の面に、そうした色彩に対しても、自から面の赤うなる年紀である。
祖母の傍でも、小さな弟と一所でも、胸に思うのも憚られる。……寝て一人の時さえ、夜着の袖を被らなければ、心に描くのが後暗い。……
――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密に据えようとしたのである。
成りたけ、人勢に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。
その癖、傍で視ると、渠が目に彩り、心に映した――あの《ろう》たけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩の勧進をするような光景であった。
渠は、空に恍惚と瞳を据えた。が、余りに憧るる煩悩は、かえって行澄ましたもののごとく、容も心も涼しそうで、紺絣さえ松葉の散った墨染の法衣に見える。
時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺の煙草入を懐中へ蔵うと、静に身を起して立ったのは――更めて松の幹にも凭懸って、縋って、あせって、煩えて、――ここから見ゆるという、花の雲井をいまはただ、蒼くも白くも、熟と城下の天の一方に眺めようとしたのであった。
さりとも、人は、と更めて、清水の茶屋を、松の葉越に差窺うと、赤ちゃけた、ばさらな銀杏返をぐたりと横に、框から縁台へ落掛るように浴衣の肩を見せて、障子の陰に女が転がる。
納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭主が、売溜の銭箱の蓋を圧えざまに、仰向けに凭れて、あんぐりと口を開けた。
瓜畑を見透しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭もかくしながら、土地の赤新聞というのを、鼻の下に敷いていたのが、と見る間に、二ツ三ツ団扇ばかり動いたと思えば、くるりと仰向けになった胸が、臍まで寛ける。
清水はひとり、松の翠に、水晶の鎧を揺据える。
蝉時雨が、ただ一つになって聞えて、清水の上に、ジーンと響く。
渠は心ゆくばかり城下を視めた。
遠近の樹立も、森も、日盛に煙のごとく、重る屋根に山も低い。町はずれを、蒼空へ突出た、青い薬研の底かと見るのに、きらきらと眩い水銀を湛えたのは湖の尖端である。
あのあたり、あの空……
と思うのに――雲はなくて、蓮田、水田、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から湧いて地平線上を押廻す。
冷い酢の香が芬と立つと、瓜、李の躍る底から、心太が三ツ四ツ、むくむくと泳ぎ出す。
清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ迸るのであろう。
蒼蝿がブーンと来た。
そこへ……
六
いかに、あの体では、蝶よりも蠅が集ろう……さし捨のおいらん草など塵塚へ運ぶ途中に似た、いろいろな湯具蹴出し。年増まじりにあくどく化粧った少い女が六七人、汗まみれになって、ついそこへ、並木を来かかる。……
年増分が先へ立ったが、いずれも日蔭を便るので、捩れた洗濯もののように、その濡れるほどの汗に、裾も振もよれよれになりながら、妙に一列に列を造った体は、率いるものがあって、一からげに、縄尻でも取っていそうで、浅間しいまであわれに見える。
故あるかな、背後に迫って男が二人。一人の少い方は、洋傘を片手に、片手は、はたはたと扇子を使い使い来るが、扇子面に広告の描いてないのが可訝いくらい、何のためか知らず、絞の扱帯の背に漢竹の節を詰めた、杖だか、鞭だか、朱の総のついた奴をすくりと刺している。
年倍なる兀頭は、紐のついた大な蝦蟇口を突込んだ、布袋腹に、褌のあからさまな前はだけで、土地で売る雪を切った氷を、手拭にくるんで南瓜かぶりに、頤を締めて、やっぱり洋傘、この大爺が殿で。
「あらッ、水がある……」
と一人の女が金切声を揚げると、
「水がある!」
と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏を貼った顔を掉って、年増が真先に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連が茶店へ駆寄る。
ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少いのが、続いて入りざまに、
「じゃあ、何だぜ、お前さん方――ここで一休みするかわりに、湊じゃあ、どこにも寄らねえで、すぐに、汽船だよ、船だよ。」
銀鎖を引張って、パチンと言わせて、
「出帆に、もう、そんなに間もねえからな。」
「おお、暑い、暑い。」
「ああ暑い。」
もう飛ついて、茶碗やら柄杓やら。諸膚を脱いだのもあれば、腋の下まで腕まくりするのがある。
年増のごときは、
「さあ、水行水。」
と言うが早いか、瓜の皮を剥くように、ずるりと縁台へ脱いで赤裸々。
黄色な膚も、茶じみたのも、清水の色に皆白い。
学生は面を背けた。が、年増に限らぬ……言合せたように皆頭痛膏を、こめかみへ。その時、ぽかんと起きた、茶店の女のどろんとした顔にも、斉しく即効紙がはってある。
「食るが可い。よく冷えてら。堪らねえや。だが、あれだよ、皆、渡してある小遣で各々持だよ――西瓜が好かったらこみで行きねえ、中は赤いぜ、うけ合だ。……えヘッヘッ。」
きゃあらきゃあらと若い奴、蜩の化けた声を出す。
「真桑、李を噛るなら、あとで塩湯を飲みなよ。――うんにゃ飲みなよ。大金のかかった身体だ。」
と大爺は大王のごとく、真正面の框に上胡坐になって、ぎろぎろと膚を《みまわ》す。
とその中を、すらりと抜けて、褄も包ましいが、ちらちらと小刻に、土手へ出て、巨石の其方の隅に、松の根に立った娘がある。……手にも掬ばず、茶碗にも後れて、浸して吸ったかと思うばかり、白地の手拭の端を、莟むようにちょっと啣えて悄れた。巣立の鶴の翼を傷めて、雲井の空から落ちざまに、さながら、昼顔の花に縋ったようなのは、――島田髭に結って、二つばかり年は長けたが、それだけになお女らしい影を籠め、色香を湛え、情を含んだ、……浴衣は、しかし帯さえその時のをそのままで、見紛う方なき、雲井桜の娘である。
七
――お前たち。渡した小遣。赤い西瓜。皆の身体。大金――と渦のごとく繰返して、その娘のおなじように、おなじ空に、その時瞳をじっと据えたのを視ると、渠は、思わず身を震わした。
面を背けて、港の方を、暗くなった目に一目仰いだ時である。
「火事だ、」謹三はほとんど無意識に叫んだ。
「火事だ、火事です。」
と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横に並木の正面、根を赫と赤く焼いた。
「火事――」と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切立てたように聳った。
「火事だぞ。」
「あら、大変。」
「大いよ!」
火事だ火事だと、男も女も口々に――
「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引込まねえか、こら、引込まんか。」
と雲の峰の下に、膚脱、裸体の膨れた胸、大な乳、肥った臀を、若い奴が、鞭を振って追廻す――爪立つ、走る、緋の、白の、股、向脛を、刎上げ、薙伏せ、挫ぐばかりに狩立てる。
「きゃッ。」
「わッ。」
と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒い入道雲を泳ぐように立騒ぐ真上を、煙の柱は、じりじりと蔽い重る。……
畜生――修羅――何等の光景。
たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間か、どッと溜った。
謹三の袖に、ああ、娘が、引添う。……
あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血になって湧いて、涙を絞って流落ちた。
ばらばらばら!
火の粉かと見ると、こはいかに、大粒な雨が、一粒ずつ、粗く、疎に、巨石の面にかかって、ぱッと鼓草の花の散るように濡れたと思うと、松の梢を虚空から、ひらひらと降って、胸を掠めて、ひらりと金色に飜って落ちたのは鮒である。
「火事じゃあねえ、竜巻だ。」
「やあ、竜巻だ。」
「あれ。」
と口の裡、呼吸を引くように、胸の浪立った娘の手が、謹三の袂に縋って、
「可恐い……」
「…………」
「どうしましょうねえ。」
と引いて縋る、柔い細い手を、謹三は思わず、しかと取った。
――いかになるべき人たちぞ…
大正九(一九二〇)年十月