瓜の涙

2話 瓜の涙(2)

3,467字 約7分 2009年3月28日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 人は何とも言わば言え……

 で(かれ)に取っては、花のその一里(ひとさと)が、所謂(いわゆる)、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる(くれない)の霞に乗って、あまつさえその美しいぬし()たのであるから。

 町を()くにも、気の()けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、――誰も知るまい、――ただ一人、秘密の境を探り得たのは、(ひそか)(おおい)なる誇りであった。

 が、ものの本の(うち)に、同じような場面を読み、絵の(おもて)に、そうした色彩に対しても、(おのず)から(おもて)の赤うなる年紀(とし)である。

 祖母(としより)(そば)でも、小さな弟と一所でも、胸に思うのも(はばか)られる。……寝て一人の時さえ、夜着の袖を(かぶ)らなければ、心に描くのが後暗(うしろめた)い。……

 ――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、(ひそか)に据えようとしたのである。

 成りたけ、人勢(ひとけ)に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。

 その癖、(はた)()ると、渠が目に彩り、心に映した――あの《ろう》たけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石(おおいし)の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の勧進をするような光景であった。

 渠は、(くう)恍惚(うっとり)と瞳を据えた。が、余りに(あこが)るる煩悩は、かえって行澄(おこないす)ましたもののごとく、(かたち)も心も涼しそうで、紺絣(こんがすり)さえ松葉の散った墨染の法衣(ころも)に見える。

 時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、(かます)の煙草入を懐中(ふところ)(しま)うと、(しずか)に身を起して立ったのは――(あらた)めて松の幹にも凭懸(よりかか)って、(すが)って、あせって、(もだ)えて、――ここから見ゆるという、花の雲井をいまはただ、(あお)くも白くも、(じっ)と城下の天の一方に眺めようとしたのであった。

 さりとも、人は、と(あらた)めて、清水の茶屋を、松の葉(ごし)差窺(さしうかが)うと、赤ちゃけた、ばさらな銀杏返(いちょうがえし)をぐたりと横に、(かまち)から縁台へ落掛(おちかか)るように浴衣の肩を見せて、障子の陰に女が転がる。

 納戸へ通口(かよいぐち)らしい、浅間(あさま)な柱に、肌襦袢(はだじゅばん)ばかりを着た、胡麻塩頭(ごましおあたま)の亭主が、売溜(うりだめ)の銭箱の(ふた)(おさ)えざまに、仰向けに(もた)れて、あんぐりと口を開けた。

 瓜畑を見透(みとお)しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這(はらば)いになった男が一人、黄色な団扇(うちわ)で、耳も頭もかくしながら、土地の赤新聞というのを、鼻の下に敷いていたのが、と見る間に、二ツ三ツ団扇ばかり動いたと思えば、くるりと仰向けになった胸が、(へそ)まで(はだ)ける。

 清水はひとり、松の(みどり)に、水晶の(よろい)揺据(ゆりす)える。

 蝉時雨(せみしぐれ)が、ただ一つになって聞えて、清水の上に、ジーンと響く。

 渠は心ゆくばかり城下を(なが)めた。

 遠近(おちこち)樹立(こだち)も、森も、日盛(ひざかり)に煙のごとく、(かさな)る屋根に山も低い。町はずれを、蒼空(あおぞら)へ突出た、青い薬研(やげん)の底かと見るのに、きらきらと(まばゆ)い水銀を湛えたのは湖の尖端(せんたん)である。

 あのあたり、あの空……

 と思うのに――雲はなくて、蓮田(はすだ)水田(みずた)、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から()いて地平線上を押廻す。

 (つめた)い酢の香が(ぷん)と立つと、瓜、(すもも)の躍る底から、心太(ところてん)が三ツ四ツ、むくむくと泳ぎ出す。

 清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ(ほとばし)るのであろう。

 蒼蝿(ぎんばえ)がブーンと来た。

 そこへ……

       六

 いかに、あの(てい)では、蝶よりも蠅が(たか)ろう……さし(すて)のおいらん草など塵塚(ちりづか)へ運ぶ途中に似た、いろいろな湯具蹴出(けだ)し。年増まじりにあくどく化粧(けわ)った(わか)い女が六七人、汗まみれになって、ついそこへ、並木を来かかる。……

 年増分が先へ立ったが、いずれも日蔭を便(たよ)るので、(よじ)れた洗濯もののように、その濡れるほどの汗に、(すそ)(ふり)もよれよれになりながら、妙に一列に列を造った(てい)は、率いるものがあって、一からげに、縄尻でも取っていそうで、浅間しいまであわれに見える。

 故あるかな、背後に迫って男が二人。一人の(わか)い方は、洋傘(こうもり)を片手に、片手は、はたはたと扇子を使い使い来るが、扇子面に広告の描いてないのが可訝(おかし)いくらい、何のためか知らず、(しぼり)扱帯(しごき)(せなか)に漢竹の節を詰めた、(ステッキ)だか、(むち)だか、朱の(ふさ)のついた(やつ)をすくりと刺している。

 年倍(としばい)なる兀頭(はげあたま)は、(ひも)のついた(おおき)蝦蟇口(がまぐち)突込(つッこ)んだ、布袋腹(ほていばら)に、(ふどし)のあからさまな前はだけで、土地で売る雪を切った氷を、手拭(てぬぐい)にくるんで南瓜(とうなす)かぶりに、(あご)を締めて、やっぱり洋傘(こうもり)、この大爺(おおじじい)殿(しっぱらい)で。

「あらッ、水がある……」

 と一人の女が金切声を揚げると、

「水がある!」

 と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏(ずつうこう)()った顔を()って、年増が真先(まっさき)に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連(おんなれん)が茶店へ駆寄る。

 ちょっと立どまって、大爺と口を利いた(わか)いのが、続いて入りざまに、

「じゃあ、何だぜ、お前さん方――ここで一休みするかわりに、(みなと)じゃあ、どこにも寄らねえで、すぐに、汽船だよ、船だよ。」

 銀鎖を引張って、パチンと言わせて、

「出帆に、もう、そんなに間もねえからな。」

「おお、暑い、暑い。」

「ああ暑い。」

 もう飛ついて、茶碗やら柄杓(ひしゃく)やら。諸膚(もろはだ)を脱いだのもあれば、(わき)の下まで腕まくりするのがある。

 年増のごときは、

「さあ、水行水(みずぎょうずい)。」

 と言うが早いか、瓜の皮を()くように、ずるりと縁台へ脱いで赤裸々(まっぱだか)

 黄色な(はだ)も、茶じみたのも、清水の色に皆白い。

 学生は(おもて)を背けた。が、年増に限らぬ……言合せたように皆頭痛膏を、こめかみへ。その時、ぽかんと起きた、茶店の女のどろんとした顔にも、(ひと)しく即効紙(そっこうし)がはってある。

()るが()い。よく冷えてら。(たま)らねえや。だが、あれだよ、(みんな)、渡してある小遣(こづかい)各々(めいめい)(もち)だよ――西瓜(すいか)()かったらこみで行きねえ、中は赤いぜ、うけ合だ。……えヘッヘッ。」

 きゃあらきゃあらと若い(やつ)(ひぐらし)の化けた声を出す。

「真桑、李を(かじ)るなら、あとで塩湯を飲みなよ。――うんにゃ飲みなよ。大金のかかった身体(からだ)だ。」

 と大爺は大王のごとく、真正面の(かまち)上胡坐(あげあぐら)になって、ぎろぎろと(はだ)を《みまわ》す。

 とその中を、すらりと抜けて、(つま)も包ましいが、ちらちらと小刻(こきざみ)に、土手へ出て、巨石(おおいし)其方(そなた)の隅に、松の根に立った娘がある。……手にも(むす)ばず、茶碗にも(おく)れて、浸して吸ったかと思うばかり、白地の手拭の端を、(つぼ)むようにちょっと(くわ)えて(しお)れた。巣立の鶴の翼を(いた)めて、雲井の空から落ちざまに、さながら、昼顔の花に(すが)ったようなのは、――島田髭(しまだ)に結って、二つばかり年は()けたが、それだけになお女らしい影を()め、色香を(たた)え、(なさけ)を含んだ、……浴衣は、しかし帯さえその時のをそのままで、見紛(みまが)う方なき、雲井桜の娘である。

       七

 ――お前たち。渡した小遣(こづかい)。赤い西瓜。皆の身体(からだ)。大金――と渦のごとく繰返して、その娘のおなじように、おなじ空に、その時瞳をじっと据えたのを()ると、(かれ)は、思わず身を震わした。

 (おもて)を背けて、港の(かた)を、暗くなった目に一目仰いだ時である。

「火事だ、」謹三はほとんど無意識に叫んだ。

「火事だ、火事です。」

 と見る、偉大なる煙筒(えんとつ)のごとき煙の柱が、群湧(むらがりわ)いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒(まっくろ)にすくと立つと、太陽()を横に並木の正面、根を(かっ)と赤く焼いた。

「火事――」と道の中へ()と出た、人の飛ぶ足より(はや)く、黒煙(くろけむり)は幅を拡げ、屏風(びょうぶ)を立てて、千仭(せんじん)断崖(がけ)を切立てたように(そばだ)った。

「火事だぞ。」

「あら、大変。」

(おおき)いよ!」

 火事だ火事だと、男も女も口々に――

「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな(なり)で、引込(ひっこ)まねえか、こら、引込まんか。」

 と雲の峰の下に、膚脱(はだぬぎ)裸体(はだか)の膨れた胸、(おおき)な乳、(ふと)った(しり)を、若い奴が、(むち)を振って追廻す――爪立(つまだ)つ、走る、()の、白の、(もも)向脛(むかはぎ)を、刎上(はねあ)げ、薙伏(なぎふ)せ、(ひし)ぐばかりに狩立てる。

「きゃッ。」

「わッ。」

 と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒い入道雲を泳ぐように立騒ぐ真上を、煙の柱は、じりじりと(おお)(かさな)る。……

 畜生――修羅――何等の光景。

 たちまち天に(はびこ)って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来(ゆきき)も、いつまたたく間か、どッと(たま)った。

 謹三の袖に、ああ、娘が、引添う。……

 あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血になって()いて、涙を絞って流落ちた。

 ばらばらばら!

 火の粉かと見ると、こはいかに、大粒な雨が、一粒ずつ、(あら)く、(まばら)に、巨石(おおいし)(おもて)にかかって、ぱッと鼓草(たんぽぽ)の花の散るように濡れたと思うと、松の(こずえ)を虚空から、ひらひらと降って、胸を(かす)めて、ひらりと金色(こんじき)に飜って落ちたのは(ふな)である。

「火事じゃあねえ、竜巻だ。」

「やあ、竜巻だ。」

「あれ。」

 と口の(うち)呼吸(いき)を引くように、胸の浪立った娘の手が、謹三の(たもと)(すが)って、

可恐(こわ)い……」

「…………」

「どうしましょうねえ。」

 と引いて縋る、柔い細い手を、謹三は思わず、しかと取った。

 ――いかになるべき人たちぞ…

大正九(一九二〇)年十月

目次に戻る

感想を書く

目次