伊能忠敬

2話 忠敬の前半生

989字 約2分 2019年1月11日 公開

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 伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と()いましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由(かげゆ)とも称しました。上総国(かずさのくに)山武郡(さんぶぐん)小関村(こぜきむら)で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその(まま)小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと()うことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総(しもうさ)佐原町(さわらまち)の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町(さわらまち)の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を恢復(かいふく)することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造(じょうぞう)や薪問屋の営業などもあったと()うことです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに伴れて忠敬は救民の事業などをも興したので、(つい)には尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに()められて、苗字(みょうじ)佩刀(はいとう)をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。

 ところが、この間に忠敬は妻の死歿に二度も遭っていたと()うので、彼の前半生は決して幸福とは()われなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。

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