土塊石片録

2話

1,479字 約3分 2021年3月15日 公開

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 笹森儀助氏の『南島探験』によると、八重山島や与那国島にある大和(やまと)墓や八島(やしま)墓は、七百年前の平家の落武者の墓であるということになっているが、幣原〔坦〕博士の『南島沿革史論』にも同様のことが見えている。そして今では琉球を探険する人で、大和墓、八島墓のことを筆にしないものはいない位である。大和墓、八島墓の名は、なるほど平家の末路を聯想せしめる。昨年の三月私も世の探険家のまねをして、八重山探険と出かけた。ある日、二人の八重山青年に案内されて、平川の有病地に行き、いわゆる大和墓に(もう)でて、平民の霊を(とむろ)うたが、歴史的懐古の念はようやく考古学的好奇心に変じて、私はいつしか白骨や遺物をいじり始めた。その間に一人の青年は、この十四人の骨は、以前には其処此処(そこここ)にちらばっていたのを、西常央(にしつねのり)島司が一纏(ひとまと)めにして、この通り碑を建てたという事や、昔甲冑(かっちゅう)を着けた騎馬武者がこの辺に上陸したことや、その中の一人が土人が頭に物を載せて山から下って来るのを食人人種と思って、驚いて自殺したことなどを熱心に物語った。私は一種の感に打たれながら、いわゆる平氏の遺物を少しばかり取り出して見たが、長さ一尺二、三寸縦横四寸位の杉の箱数箇と、枕数箇の外には何物も見出せなかった。いささか失望して、この骨を一纏めにしなかった以前の有様が見たかったと言うと、例の青年はこれから二、三町ほど行くと洞穴がある。その中には西さんが気が付かなかったのが二つそのまま遺っていると言った。大急ぎで行って見ると、なるほど此処のは半ば棺の中に這入っていて、おまけに前の所で見たような枕と箱までが一緒になっている。これが七百年前のものとはどうしても受取れない。二人の青年にひょっとすると、これは二百年位前のものかも知れないよというと、二人は()に落ちぬという面持(おももち)をしていた。この刹那(せつな)に箱の(ふた)をあけると、案の通り土で造った円筒状の煙管(キセル)の雁首が一箇出た。箱の蓋を()く見ると、煙草(タバコ)を刻んだ跡もある。私は鬼の首でも取ったように大発見! と叫んで、二人の青年にこれで平家の落武者の墓でないことが能く分ったというと、二人の青年は不平らしく、何故(なぜ)ですと問い返えした。私はこの連中は煙草を吸っていたからと答えた。例の青年はまだ()せぬらしかった。そこで私は煙草が始めて欧洲人に知られたのは、今から四百年前(西暦一四九二年)で、メキシコのユカタン州のタバコ地方で発見された。そしてその日本に輸入されたのは、永禄年間であるから、これが七百年前の平氏の遺骨でないことは、火を観るよりも(あきら)かであるといった。二人はなるほどと、うなずいたが、いくらか失望の体であった。私は言葉をつづけた。今の証拠物件では、大和墓だけが平家の落武者の墓でないということになるので、平家の落武者が八重山に来たということはまだ否定されない。平家落のことはただに八重山や与那国の口碑(こうひ)にあるのみならず、二百年前に出来た『遺老説伝』にもあるから、よほど古くからあった口碑と思われる。まだ信ずる余地がある。特に八重山の人が古来自殺する時に腹を切って死ぬところなどは、ヨリ大なる証拠である。これは八重山の人が能く父祖の習慣を遺伝している事を語っていると思う。八重山の人が平家の子孫だとすれば、彼らは系図の上から沖縄本島の人よりも、一入(ひとしお)日本民族に近い親類(いな)純粋なる大和民族という事になる。こう語りおわった時、二人の青年は始めて安心したという有様であった。それはとにかく私はせっかく、平家の落武者を弔いに行って、煙管の雁首を得て帰った。

(明治四十一年九月『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)

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