3話 〔思想界の大革命と破壊的大運動〕
読み方を変える
それについては私ども沢山実験がある。その実験の一つを諸君に御話しすることが必要である。多分知っている御方もあるだろう。そうこうするうちに王政維新となって、幕府二百五十年の栄華は終りを告ぐるという時に、福沢先生は小禄ながら幕府の禄を受けておられる。幕府の禄を食むということは有志家などから見るとよほど不思議に見えるけれども、そうでない。先生の心では国の文明を進めようという目的から、幕府が潰れようとも、伏見の敗北が起ろうとも少しも頓着しないのである。多分鉄砲洲か新銭座の勤番長屋に書生を集めて講義をやっておられた。こういう訳である。
ところで当時の多少学問のある人達は皆幕府が傭って開成所というものを造って、外国の文書を翻訳させるということをやった。その仲間は皆西の丸に集って、これは容易ならぬ事である、薩長が天子を擁して幕府に向ってこういう乱暴をする、これに反抗をしようという相談が起ったのである。ところが先生は何度使いをやっても行かぬのである。どうも強そうな奴だが臆病な奴だというのでその仲間が先生の所にやって来て、なんで貴様は腰を抜かした。いや予は語らぬ、戦争は大嫌いだ。内輪喧嘩は大嫌いだ。今はそんな世の中ではない。これから学問して国を文明にする。薩長と将軍の喧嘩――先生は喧嘩と言うておられる――どっちが勝っても宜い――そんな事には命を捨てちゃ堪らぬ。予は語らぬとこう言われた。これがちょっと聞くとなんでもないようであるけれども、罷り間違えば直ぐ殺すという物騒な世の中である。その時には彰義隊などいう奴が上野におって皆殺す、脅迫して皆殺す。ほとんど朝夕を計られぬ。それでも自分の主義のためには少しも動かぬ。
それから到頭王政維新が仕遂げられて、明治二年になるとどうなったかというと、福沢先生を勧めて共に官軍に反抗しようというた仲間は皆建白を出したということがある。これは先生が一番得意の議論で日記にも書いてあるはず、多分この中におる人達も聞いたかも知れない。最も今日まではあまり世の中に発表すると人に差支えがあった。しかしもはや歴史になった。歴史になったから差支えない。どうやったかというと明治二年になると建白流行の世の中、先生の友達は皆学者で文章が書ける。けれども西洋風の文章、翻訳体の文章、これではどうもいかぬ。大政維新、王政復古というので、昔に復するのであるから古文学でなくてはいかぬ。西洋学者には古文学は出来ない。そこで建白書というものを見ると懸巻も畏し、そういう文体で建白書を出す。そうすると直ぐに役人に採用する。そういう様にして皆役人になった。ちょうど福沢先生が熱海に入湯しているところへやって来て、面白い世の中になった、お前一つ役人にならぬか、建白をやると直ぐ役人になれると言うと、先生は御免蒙る、予は懸巻も畏くは大嫌い、真平御免だ。前に戦争をやろうと言った時に先生の事を臆病者と言った者が、今度は懸巻も畏くになった。だからそういう先生を名づけて懸巻も畏く先生といった。よほど奇談だ。これも今話してみると滑稽のように聞えるが、なかなか尋常な事ではない。王政維新の勢いは盛んなるものである。その時には誰でも――ただいま牧野〔伸顕〕文部大臣が御話しになったように、政府万能主義の時代である。何か仕事をしようといえば政府に入らなければならぬ。それに御免蒙るといって決して仕えない。
それからどういうことが起ったかというと、王政維新にはなったが思想界に於ては復古の思想と維新の思想と、二つの潮流が大衝突をしてたびたび叛乱が起り、全国の頑固党は猛烈なる反抗をしてたびたび暗殺をする。立派な役人達もその暗殺に依って斃れたのである。そういう時である。そういう時に先生がどういうことをやられたかというと、私が先生の働きを直接に見、また聴いたところを以て見れば、先生の第一の目的はこの思想界に大変動を起そうというのである。支那的思想、封建的、形式的思想、これを破壊しなければ、到底日本を文明に導くことは出来ぬという。そこでその当時ちょうど英米に於て最も盛んなる功利主義を皷吹した。而して儒教主義、封建主義、形式的主義を根底から破壊した。その時には随分奇激な言葉もある。今日から見るとあまり大人気ない子供らしい、随分手きびしい極端な議論もあったけれども国民の思想を根底から破壊しようとかかった。ほとんど思想界の革命を企てた。大革命である。思想界の大革命者である。
その時に当って福沢先生を気早い若い人達、頑固の書生達が随分手きびしく圧迫した。それがために当時の慶應義塾の塾生は、福沢先生を保護することに随分心配されたであろう。而してかくの如き極端なる行為は、当局者にはあまり悦ばれなかったのである。さきの大久保〔利通〕公の如き偉大なる人傑は偉大なる人傑を知るのであるが、多数にはあまり悦ばれなかったのである。破壊党とでも認めたのであろう。無論破壊党である。全然この思想界を破壊しなければ、旧物を破壊しなければ、日本を文明に導くことは出来ぬというので、今日までの事業はことごとく破壊である。その時に当っては玉石共に焼くことがあるかも知れない。何でも構わぬ、一たび破壊しなければとても日本を文明に導くことは出来ぬということであったのである。その方から見れば先生に親炙した人達が見ると、そういう乱暴な行為は不思議であると思うほどである。
ところが先生ひとたび意を決して国のため社会のためにこれなりと認めると、如何なる反抗があっても生命を賭して驀進する。即ち破壊的大運動をなすのである。この勇敢なる行為というものが先生をして今日の如くあらゆる方面に向って成功せしめ、且つ多数の国民が先生に向って十分なる尊敬を表するという如く偉大ならしめたところのものは、基本は何であるかというと、即ち破壊的大運動である。その当時に書いたものが残っている。それをご覧になると皆破壊であって、日本の旧来の道徳を根底から破壊した。その破壊の余波が婦人の問題にも及んでいるのである。政治の問題にも及んでいるのである。経済の問題にも及んでいるのである。あたかも「コップ」の水をぶちまけると四方に流れるという様な訳で、破壊的運動の余波があらゆる方面に及んだのである。その間に常識が発達して且つ円満にあらゆる方面に働いたのである。而して「アングロサクソン」の文明と「アングロサクソン」の精神を日本の国民に先だって了解されて、これを日本の文明と結付けて而してこれを理想界に人に教える位ではない、直ちにこの理想を実現しようという大勇気を出して運動をやられたのである。而してそのために非常なる反抗を受け、非常なる圧迫を受けた。非常なる困難というものが、到頭先生の最後の成功となったのである。今日に至って国民が皆先生の徳を慕うというのは、即ち明治初年に於ける破壊的大運動、日本の精神界に思想界に大破壊を加えられた、これが基いである。そこで晩年に至って先生の種々の修身、もしくは独立自尊、あるいは婦人問題という建設的の道徳論が沢山あるのは、ちょうどその破壊の後始末であると考えるのである(拍手)。