1話

1,457字 約3分 2007年8月6日 公開

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     ――沢木梢氏(さはきこずゑし)に――

 おれの(うち)の二階の窓は、丁度(ちやうど)向うの(うち)の二階の窓と向ひ合ふやうになつてゐる。

 向うの家の二階の窓には、百合(ゆり)薔薇(ばら)の鉢植が行儀(ぎやうぎ)よく幾つも並んでゐる。が、その(うしろ)には黄いろい窓掛が大抵(たいてい)重さうに下つてゐるから、部屋の中の主人の姿は、()だ一度も見た事がない。

 おれの家の二階の窓際には、古ぼけた肱掛椅子(ひぢかけいす)が置いてある。おれは毎日その肱掛椅子(ひぢかけいす)へ腰を(おろ)して、ぼんやり往来(わうらい)人音(ひとおと)を聞いてゐる。

 いつ何時(なんどき)おれの所へも、客が来ないものでもない。おれの(うち)の玄関には、ちやんと電鈴がとりつけてある。今にもあの電鈴の愉快な音が、勢よく家中(うちぢう)に鳴り渡つたら、おれはこの肱掛椅子から立上つて、早速(さつそく)遠来の珍客を迎へる為に、両腕を大きくひろげた儘、戸口の方へ歩いて()かう。

 おれは時々こんな空想を浮べながら、ぼんやり往来(わうらい)人音(ひとおと)を聞いてゐる。が、いつまでたつても、おれの所へは訪問に来る客がない。おれの部屋の中には鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を(つと)めてゐる。

 それが長い長い(あひだ)の事であつた。

 その内に或夕方、ふとおれが向うの二階の窓を見ると、黄いろい窓掛を(うしろ)にして、私窩子(しくわし)のやうな女が立つてゐる。どうも見た所では混血児(あひのこ)か何からしい。頬紅(ほほべに)をさして、()ぶちを黒くぬつて、絹のキモノをひつかけて、細い(きん)耳環(みみわ)をぶら下げてゐる。それがおれの顔を見ると、(こび)の多い眼を挙げて、慇懃(いんぎん)におれへ会釈(ゑしやく)をした。

 おれは何年にも人に会つた事がない。おれの部屋の中には、鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を勤めてゐる。だからこの私窩子(しくわし)のやうな女が会釈(ゑしやく)をした時、おれは相手を(いや)しむより先に、こちらも眼で笑ひながら、黙礼を返さずにはゐられなかつた。

 それから毎日夕方になると、必ず混血児(あひのこ)の女は向うの窓の前へ立つて、下品な嬌態(けうたい)をつくりながら、慇懃(いんぎん)におれへ会釈(ゑしやく)をする。時によると鉢植の薔薇(ばら)百合(ゆり)の花を折つて、往来越しにこちらの窓へ投げてよこす事もある。

 するとおれもいつの()にか、古ぼけた肱掛椅子(ひぢかけいす)に腰を下して、往来の人音を聞く事が(ものう)いやうになり始めた。いくらおれが待ち暮した所で、客は永久に来ないかも知れない。おれはあまり長い(あひだ)、鏡にうつるおれ自身の相手を勤めてゐたやうな気がする。もう遠来の客ばかり待つてゐるのは止めにしよう。

 そこであの私窩子(しくわし)のやうな女が会釈(ゑしやく)をすると、おれの方でも必ず会釈(ゑしやく)をする。

 それが又長い長い間の事であつた。

 所が或朝、おれの所へ来た手紙を見ると、折角(せつかく)おれを尋ねたが、いくら電鈴の(ボタン)を押しても、誰一人(ひとり)返事をしなかつたから、おれに会ふ事もやむを得ず断念をしたと書いてある。おれは昨夜(ゆうべ)あの混血児(あひのこ)の女が(はう)りこんだ、薔薇(ばら)百合(ゆり)の花を踏みながら、わざわざ玄関まで下りて行つて、電鈴の具合(ぐあひ)を調べて見た。すると知らない()に電鈴の針金が()びたせゐか、誰かの悪戯(いたづら)か、二つに途中から切れてゐる。おれの心は重くなつた。おれがあの黄いろい窓掛の(うしろ)に住んでゐる私窩子(しくわし)のやうな女を知らずにゐたら、おれの待ちに待つてゐた客の一人は、とうにこの電鈴の愉快な響を、おれの耳へ伝へたのに相違あるまい。

 おれは静に又二階へ行つて、窓際の肱掛椅子(ひぢかけいす)に腰を下した。

 夕方になると、又向うの家の二階の窓には、絹のキモノを着た女が現れて、下品な嬌態(けうたい)をつくりながら、慇懃(いんぎん)におれへ会釈(ゑしやく)をする。が、おれはもうその会釈には答へない。その代り人気(ひとげ)のない薄明りの往来(わうらい)を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。

(大正八年二月)

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