1話 一 生いたちから青年まで
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二葉亭が明治二十二年頃自ら手録した生いたちの記がある。未完成の断片であるが、その幼時を知るにはこれに如くものはなかろう。曰く、
余は元治元年二月二十八日を以て江戸市ヶ谷合羽坂尾州分邸に生れたり。父にておはせし人はその頃年三十を越え給はず、また母にておはせし人もなほ若かりしかば、さのみは愛し給ひしとも聞かざれど、祖母なる人のいとめでいつくしみ給ひて、父の叱り給ふ時は機嫌よろしからぬほどなれば、おのづから気随におひたてり。されど小児の時余の尤もおそれたるは父と家に蔵する鍾馗の画像なりしとぞ。
幼なかりしころより叨りに他人に親まず、いはゆる人みしりをせしが、親しくゆきかよへる人などにはいと打解けてませたる世辞などいひしと叔母なる人常にの給ひき。
六歳のころ父なる人自ら手本をものして取らし給ひつ。されど習字よりは画を好みて、夜は常に木偶の形など書き散らして楽みしが、ただみづから画くのみならで、絵巻物(註、錦絵の事なり)など殊の外よろこびて常に玩べりとか。
画の外余の尤も好みしは昔物語りにて、夜に入ればいつも祖母なる人の袖引きゆるがして舌切雀のはなしし玉へとせがみしといふ。
されどこれらは幼き時のことなれば今は覚えなし。ただ祖母なる人の物語り給ひしを記せるのみなり。
上野戦争後諸藩引払ひの時余の一家は皆尾州へおもむきたれど、ただ父なる人のみはなほ留まりて江戸の邸を守り給へり。
尾州に到りてのちに初めて学に就けり。組外れに漢学塾ありたりしが、その門に入りて漢学を修めり。また余の叔父なる人にも就きて素読を修めり。藩に学あり、英仏両語を教授す。余またこれに入りて仏語を修めり。
余は常に学校に行くを楽みとせしが、学問するが面白きにはあらで、学校にて衆童と遊戯嬉笑するが面白きゆゑなりき。
余のすめる近傍の児童は皆余の朋友なりき。但し何人も経験したる事ならんが、余の朋友中年たけたるもの二人ありたり。件の両人相親しむ時は余らは皆その麾下に属してさまざまなる悪戯をして戯れしが両人仲違ひしたる時は余らもまた仲間割れをせり。余は到つて臆病なりしかばかかる時は常に両人中余の尤も懼るる方に附き随ひて媚を献じてその機嫌を取れり。
余はかくの如く他人に対して臆病なりしかど、家人に対して大胆にていはゆる湾泊を極めたりき。余は甚だしき疳性にて毎朝衣服を母なる人に着せてもらひしが、常に一度にては済まず、何処か気持悪しければ二、三度も着かへるを常とせるをもて、これに由りて母なる人を苦めたる事もありき。
概していへば当時の余の心状は卑劣なりしなり。
以上はその全文である。取出でていうほどの奇はないが、二葉亭の一生を貫徹した潔癖、俗にいう気難かし屋の気象と天才肌の「シャイ」、俗にいう羞恥み屋の面影が児供の時から仄見えておる。かつこの自伝の断片は明治二十二年ごろの手記であるが、自ら「当時の余の心状は卑劣なりしなり」と明らさまに書く処に二葉亭の一生鞭撻してやまなかった心の艱みが見えておる。
尾州から父に伴われて父の任地島根に行き、殆んど幼時の大部分を島根に暮した。その頃の父の同僚であって叔姪同様に親しくした鈴木老人その他の話に由ると、頗る持余しの茶目であったそうだ。軍人志頤で、陸軍大将を終生の希望とし、乱暴して放屁するを豪いように思っていたと、二葉亭自身の口から聞いた。
二葉亭の伯父で今なお名古屋に健在する後藤老人は西南の役に招集されて、後に内相として辣腕を揮った大浦兼武(当時軍曹)の配下となって戦った人だが、西郷贔負の二葉亭はこの伯父さんが官軍だというのが気に喰わないで、度々伯父さんを捉まえては大議論をしたそうだ。二葉亭の東方問題の抱負は西郷の征韓論あたりから胚胎したらしい。こんな塩梅に児供の時分から少し変っていたので、二葉亭を可愛がっていた祖母さんは「この子は金鍔指すか薦被るかだ、」と能く人に語ったそうだ。(金鍔指すか薦被るかというは大名となるか乞丐となるかという意味の名古屋附近に行われる諺。)
十五歳の時、島根から上京して四谷の忍原横町の親戚の家に寄食した。その時分もヤンチャン小僧で、竹馬の友たる山田美妙の追懐談に由ると、お神楽の馬鹿踊が頗る得意であって、児供同士が集まると直ぐトッピキピを初めてヤンヤといわせたそうだ。間もなく芝の愛宕下の高谷塾に入塾した。高谷塾というは『日本全史』というかなり浩澣な大著述をしたその頃の一と癖ある漢学者高谷龍洲の家塾であって、かなり多数の書生を集めて東京の重なる私塾の一つに数えられていた。大阪朝日の旧社員の土屋大作や、今は故人となった帝劇の座付作者の右田寅彦兄弟も同塾であったそうだ。然るにイタズラ小僧の茶目の二葉亭は高谷塾に入塾すると不思議に俄に打って変った謹直家となって真面目に勉強するようになった。知らない顔の他人の中へ突き出されて、持前の羞恥み屋から小さくなったのでもあろうが、一つは今なら中学程度に当る東京の私塾の書生となったので、俄に豪くなって大人びたのでもあろう。
その時代、一番親しくしたは二葉亭の易簀当時暹羅公使をしていた西源四郎と陸軍大尉で早世した永見松太郎の二人であった。殊に永見は同時に上京した同郷人であるし、同じ軍人志願であったからなお更深く交際した。然るに永見は首尾よく陸軍の試験に合格したが、二葉亭はその頃からの強度の近視眼のため不合格となった。(永見はその後参謀部の有数な秀才と歌われていたが、惜しい事に大尉で若死にしてしまった。福島大将と同時代であったそうだ。)二葉亭は運悪く最初の首途に失敗なってしまったが、首尾よく合格して軍人となっても狷介不覊の性質が累をなして到底長く軍閥に寄食していられなかったろう。
その頃二葉亭は既に東亜の形勢を観望して遠大の志を立て、他日の極東の風雲を予期して舞台の役者の一人となろうとしていた。陸軍を志願したのも、幼時は左に右くその頃では最早ただ軍服が着たいというような幼い希望ではなかった。それ故に軍人志望が空しくなると同時に外交官を志ざして旧外国語学校の露語科に入学した。その頃高谷塾以来の莫逆たる西源四郎も同じ語学校の支那語科に在籍していたので、西は当時の露語科の教師古川常一郎の義弟であったからなお更益々交誼を厚くした。その後間もなく西が外務の留学生となって渡支してからも山海数千里を距てて二人は片時も往復の書信を絶やさなかった。その頃の二葉亭の同窓から聞くと、暇さえあると西へ遣る手紙を書いていたそうで、その手紙がイツデモ国際問題に関する侃々諤々の大議論で、折々は得意になって友人に読んで聞かせたそうだ。二葉亭の露西亜語は日露の衝突を予想しての国家存亡の場合に活躍するための準備として修められたのだから、「君は支那公使となれ、我は露国公使とならん」というが二人の青年の燃ゆる如き抱負で、殆んど天下の英雄は使君と操とのみの意気込であった。二葉亭が死ぬまでも国際問題を口にしたのは決して偶然ではないので、マダ二十歳になるかならぬかの青年時代から血を湧かした希望であったのだ。(二葉亭の歿後、或人が西を訪問してその頃の二葉亭の遺事を聞きたいといったところが、西は頗る冷然として二葉亭とはホンの同窓というだけの通り一遍の浅い関係だからその頃の事は大抵忘れてしまったといういたって率気ない挨拶だったそうだ。御当人がそういう健忘性だから世間からも西という公使があったかなかったか今では全く忘れられている。)
明治十八年の秋、旧外国語学校が閉鎖され、一ツ橋の校舎には東京商業学校が木挽町から引越して来て、仏独語科の学生は高等中学校に、露清韓語科は商業学校に編入される事になった。当時の東京商業学校というは本と商法講習所と称し、主として商家の子弟を収容した今の乙種商業学校程度の頗る低級な学校だったから、士族気質のマダ失せない大多数の語学校学生は突然の廃校命令に不平を勃発して、何の丁稚学校がという勢いで商業学校側を睥睨した。今ならこんな専制的命令が行われるはずもなく、そういう場合学生は聯合して示威運動でもする処だが、当時の学生は尚だそういう政治運動をする考がなく、硬骨連が各自に思い思いに退校届を学校へ叩きつけて飛出してしまった。二葉亭もまたその一人で、一時は商業学校に学籍を転じたが、翌十九年一月、とうとう辛抱が仕切れないで怫然袂を払って退学してしまった。最う二、三月辛抱すれば卒業出来るのだし、二葉亭は同学中の秀才だったから、そのまま欠席して試験を受けないでも免状を与えようという校長の内諭もあったが、気に喰わない学校の卒業証書を恩恵的に貰う必要はないと、キビキビ跳付けてプイと退学してしまった。
が、この頓挫が二葉亭の生涯の行程をこじらす基いとなったは争われない。当時の商業学校の校長矢野次郎は二葉亭の才能を惜んで度々校長室に招いて慰諭し、いよいよ学校を退学してからも身分上の心配をしてやろうとまで厚意を持ってくれた。が、不平で学校を飛出しながら校長の恩に縋るような所為は餓死しても二葉亭には出来なかった。かつ露語科に入った当初の志望こそ外交官であったが、語学の研究のため露西亜文学を渉猟し初してから何時の間にか露国思想の感化を受けると同時に、それまで潜在していた文学的興味、芸術的意識が俄に頭を擡上げて来て当初の外交官熱が次第に冷め、その時分は最早以前の東方策士形気でなくなっていたから、矢野の厚意に縋って官界なり実業界なりに飛込む気にはなれなかった。元来が軍人志願の漢学仕込で、岳武穆や陸宣公に鍛えられていた上に、ヘルチェンやビェリンスキーの自由思想に傾倒して意気欝勃としていたから、一から十までが干渉好きの親分肌の矢野次郎の実業一天張の方針と相容れるはずはなかった。算盤玉から弾き出したら矢野のいう通りに温和しくなってる方が得策であったかも知れないが、矢野が世話を焼けば焼くほど、世話になるが利益と思えば思うほど益々反抗して、折角の矢野の厚意をピタリと跳付けて後足で蹴ってしまった。無論、学校を飛出してから何をするという恃はなかったが、この場合是非分別を考える遑もなくて、一図に血気に任して意地を貫いてしまった。