2話 二 春廼舎との握手
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あたかもその頃であった。坪内逍遥の処女作『書生気質』が発行されて文学士春廼舎朧の名が俄に隆々として高くなったのは。(『書生気質』は初め清朝四号刷の半紙十二、三枚ほどの小冊として神田明神下の晩青堂という書肆から隔週一冊ずつ続刊されたので、第一冊の発行は明治十八年八月二十四日であった。)丁度政治が数年後の国会開設を公約されて休息期に入って民心が文学に傾き、リットンやスコットの飜訳小説が続出して歓迎され、政治家の創作が頻りに流行して新らしい機運に向いていた時であったから、今の博士よりも遥にヨリ以上重視された文学士の肩書を署した春廼舎の新作は忽ち空前の人気を沸騰し、堂々たる文学士が指を小説に染めたという事は従来戯作視した小説の文学的位置を重くもし、世間の好奇心を一層喚びもした。その頃までは青年の青雲の希望は政治に限られ、下宿屋から直ちに参議となって太政官に乗込もうというのが青年の理想であった時代であったから、天下の最高学府の出身者が春廼舎朧という粋な雅号で戯作の真似をするというは弁護士の娘が女優になったり、華族の冷飯がキネマの興行師となるよりも一層意外で、『書生気質』が天下を騒がしたのはその芸術的効果よりも実は文学士の肩書の威力であった。
それ故世間は半信半疑で、初めはやはり政治家の小説と同じ一時の流行カブレで、堂々たる学士がマジメに小説家になろうとは誰も思わなかった。ところが高田半峰が長々しい批評を書き、春廼舎もまた矢継早に『小説神髄』(この頃『書生気質』と『小説神髄』とドッチが先きだろうという疑問が若い読書子間にあるらしいが、『神髄』はタシカ早稲田の機関誌の『中央学術雑誌』に初め連載されたのが後に単行本となったので、『書生気質』以後であった。)から続いて『妹と背鏡』を発表し、スモレット、フィールディング、ディッケンス、サッカレー等の英国小説家が大文豪として紹介され、戯作の低位から小説が一足飛びに文明に寄与する重大要素、堂々たる学者の使命としても恥かしくない立派な事業に跳上ってしまった。それまで政治以外に青雲の道がないように思っていた天下の青年はこの新らしい世界を発見し、俄に目覚めたように翕然として皆文学に奔った。美妙や紅葉が文学を以て生命とする志を立てたのも、動機は春廼舎の成功に衝動されたのだ。
二葉亭はこれより先き語学校の科目としてゴンチャローフやゴーゴリやレルモントフやドストエフスキー等の大文学を研究し、進んでビェリンスキー、ドブロリューボフ、ヘルチェン等の論文集を耽読し、殊に深くビェリンスキーに傾倒していた。尤も半ば語学研究の必要のために外ならなかったが、当時の語学校の教師グレーというがなかなかな文学家であって、その露文学を講ずるや微に入り細に渉って批評し、かつエロキューションに極めて巧妙で、身振声色交りに手を振り足を動かし眼を剥き首を掉ってゴンチャローフやドストエフスキーを朗読して聞かしたのが作中のシーンを眼前に彷彿せしめて、一ト度グレーの講義を聞くものは皆語学の範囲を超えてその芸術的妙趣を感得し、露西亜文学の熱心なる信者とならずにはいられなかった。二葉亭もまたこの一種の天才ある教師の指導を受けて何時とはなしに芸術的興味を長じ、進んで専門文人となるまでの断乎たる決心は少しもなかったが、知らず識らずに偶然文人の素地を作っていた。時も時、学校を罷めて何をするという方角もなく、満腔の不平を抱いて放浪していた時、卒然としてこの文学勃興の機運に際会したは全く何かの因縁であったろう。
当時の春廼舎朧の声望は旭日昇天の勢いで、世間の『書生気質』を感歎するやあたかも凱旋将軍を迎うる如くであった。が、世間が驚嘆したのは実は威力ある肩書のためであって、その実質は生残りの戯作者流に比べて多少の新味はあっても決して余り多く価値するに足らなかったのは少しく鑑賞眼あるものは皆認めた。ましてや偉大なる露国文学の一とわたりを究めた二葉亭が何条肩書に嚇かされよう。世間が『書生気質』や『妹と背鏡』や『小説神髄』を感嘆する幼稚さを呆れると同時に、文学上の野心が俄にムズムズして来た。尤も進んで春廼舎と競争しようというほど燃上ったのではなかったが、左に右く春廼舎の技巧や思想の歯癢さに堪えられなくなった結果が『小説神髄』の疑問の箇処々々に不審紙を貼ったのを携えて突然春廼舎の門を叩いた。語学校を罷めてから間もなくであった。
二葉亭が春廼舎を訪問したのは、昔の武者修行が道場破りをするツモリで他流試合を申込むと多少似通った意気込がないではなかった。が、二葉亭は極めて狷介な負け嫌いであると同時にまた極めて謙遜であって、如何なる人に対しても必ず先ず謙虚して教を待つの礼を疎かにしなかった。春廼舎を慊らなく思っていたには違いないが、訪問したのは先輩を折伏して快を取るよりは疑問を晴らして益を享くるツモリであったのだ。が、ビェリンスキーに傾倒しゴンチャローフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー等に飽満した二葉亭が『書生気質』の著者たる当時の春廼舎に教えられる事が余り多くなかったのは明かに想像し得られる。
が、それ以後しばしば往来して文学上の思想を交換すると共に文壇の野心を鼓吹された事は決して尋常でなかった。矢崎鎮四郎を春廼舎に紹介したのもやはり二葉亭であった。矢崎は明治十九年の十月には処女作『守銭奴の肚』を公けにし、続いて同じ年の暮れに『ひとよぎり』を出版し、二葉亭に先んじて逸早く嵯峨の屋お室の文名を成した。
二葉亭の初めての試みはゴーゴリの飜訳であった。が、世間には発表しなかった。その発表しなかった理由は不明であるが、多分性来の自重心が軽々しく公けにするを欲しなかったのであろう。その時分またビェリンスキーの美論の一部を飜訳した事があった。尤もこの飜訳は春廼舎を初めビェリンスキーを知らない友人に示すためであって、公けにするツモリはなかったのであるが、その中の一部分が飜訳後暫らく経ってから冷々亭主人の名で前記した早稲田の機関誌の『中央学術雑誌』に掲載された。が、ビェリンスキーの美論は当時の読書界には少し高尚過ぎたから、誰にも碌々読まれず、殆んど注意されずに終ったが、今から三十年前にこういう深邃な美学論が飜訳されたというは恐らく今の若い人たちの思掛けない事であろう。その時分二葉亭は冷々亭杏雨、率性堂、または翕々亭と称していた。
その頃二葉亭は学校を罷めてしまって、これから先きどうでも一本立ちにならねばならない場合であった。親代々家禄で衣食した士族出の官吏の家では官吏を最上の階級とし、官吏と名が附けば腰弁でも一廉の身分があるように思っていたから、両親初め周囲のものは皆二葉亭の仕官を希望していた。が、二葉亭は決然袂を揮って退学した余勇がなお勃々としていた処へ、春廼舎からは盛んに文学を煽り立てられ、弟分に等しい矢崎ですらが忽ち文名を揚ぐるを見ては食指動くの感に堪えないで、周囲の仕官の希望を無視して、砂を噛んでも文学をやると意気込んでいた。その時分の文学的覇心は殆んど天に冲する勢いであった。