二葉亭四迷の一生

10話 十 北京時代

3,232字 約6分 2011年7月20日 公開

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川島浪速と佐々木照山・提調時代の生活・衝突帰朝

 北京へ行った目的は極東の舞台の中心たる北京の政情を視察する傍ら支那を知るための必要上、本場の支那語を勉強するツモリであったのである。幸い旧語学校の同窓の川島浪速(なにわ)がその頃警務学堂監督として北京に在任して声望隆々日の出の勢いであったので、久しぶりで訪問して旧情を(あたた)めかたがた志望を打明けて相談したところが、一夕の歓談が忽ち肝胆相照らして終に川島の配下に学堂の提調に就任する事となった。

 川島浪速の名は今では知らないものはない。満洲朝滅亡後北京の舞台を去って帰朝し、近年浅間の山荘に雌伏して静かに形勢を観望しているが、川島の名は粛親王(しゅくしんのう)の姻親として復辟(ふくへき)派の日本人の巨頭として(ぐう)を負うの虎の如くに今でも恐れられておる。旧語学校の支那語科出身で、若い東方策士のグループの一人として二葉亭とは学校時代からの親交であった。旧語学校廃校後はさらでも需要の少ない支那語科の出身は皆窮乏していたが、殊に川島は『三国志』か『水滸伝(すいこでん)』からでも抜け出して来たような豪傑肌だったから他にも容れられず自らも求めようともしないで陋巷(ろうこう)に窮居し、一時は朝夕にも差支(さしつか)えて幼き弟妹が(うえ)に泣くほどのドン底に落ちた。団匪(だんぴ)事件の時、陸軍通訳として招集され、従軍中しばしば清廷の宗室大官と親近する中に計らずも粛親王の知遇を得たのが青雲の機縁となった。事件落着後清廷が目覚めて改革を行わんとするや、川島は粛親王府に厚聘されて警務学堂を創設し、毎期四百名の学生を養うて清国警察を補充し、(ただ)に学堂教務を()ぶるのみならず学堂出身者の任命の詮衡(せんこう)及び進退黜陟(ちゅっちょく)等総てを委任するという重い権限で監督に任じた。当時の(あるいは今でも)支那の軍制は極めて不備であって、各省兵勇はあたかも烏合(うごう)の無頼漢のようなものだったから、組織的に訓練された学堂出身の警吏は兵勇よりも信頼されて事実上軍務をも帯びていた。(したが)ってこれを統率する川島の威権は我が警視総監以上であって、粛親王を背後の力として声威隆々中外を圧する勢いであった。

 提調というは監督の下に総教習と聯び立つ学堂事務の総轄者であった。出納庶務から人事の一切を()べ、学堂の機密にも参じ外部の交渉にも当って、あたかも大蔵と内務と外務とを兼掌していたから、任務は頗る重くて極めて困難であった。二葉亭は生中(なまなか)文名が高く在留日本人間にも聞えていたので、就任の風説あるや学堂の面々は皆小説家の提調を迎うるを喜ばなかった。就中(なかんずく)、総教習稲田穣の如きは当初(のっけ)から不信任を公言して抗議を持出そうとした。然るにいよいよ新任提調として出頭するや、一同は皆瀟洒(しょうしゃ)たる風流才人を見るべく想像していたに反して、意外にも状貌(じょうぼう)魁偉(かいい)なる重厚沈毅(ちんき)の二葉亭を迎えて一見忽ち信服してしまった。

 川島の妹婿たる佐々木照山も蒙古から帰りたての蛮骨稜々として北京に傲睨していた大元気から小説家二葉亭が学堂提調に任ぜられたと聞いて(いた)激昂(げっこう)し、虎髯(こぜん)逆立(さかだ)って川島公館に怒鳴り込んだ。「小説家を提調にしてどうする」と(れいせい)川島に喰って(かか)ると、「()()()くも一度会って見るサ」といわれて川島の仲介で二葉亭と会見し、鼎座(ていざ)して相語って忽ち器識の凡ならざるに嘆服し、学堂のための良提調、川島のための好参謀を得たるを満足し、それから以来は度々往来して互に相披瀝して国事を談ずるを快としたそうだ。

 二葉亭の提調生活は当時私に送った次の手紙に髣髴(ほうふつ)としておる。

拝啓、今日は支那の十二月二十八日にて学校も冬期休業中ゆゑいたって閑散なるべき理窟(りくつ)なれど小生の職務は学堂庶務会計一切の事宜を弁理するにありと支那流にては申す職掌ゆゑ日曜も祭日も滅茶苦茶に忙がしく、一昨夜なども徹夜していはゆる事宜を弁理候始末ほとほと閉口(いたし)候うちに自ら一種のおもしろみさすがになきにしもあらず、このおもしろみ読書の面白味にもあらず談理のおもしろみにもあらで一種変梃(へんてこ)なおもしろみに候、小生(おも)ふに学者の楽しむ所は理のおもしろみ、詩人の楽しむ所は情のおもしろみ、事務家の楽しむ所は action のおもしろみ、事の趣にあらんか、元来当学堂は表面は清国の一学堂なれど裏面は日本の勢力扶植の一機関たれば自ら志士集合所の如き趣ありて公使館あたりの純然たる官吏社会より()れば頗る危険の分子を含みたる一団体の如く目さるる傾有之(かたむきこれあり)、ために随分迷惑を感じ候事も有之候へど、そこが即ち一種の面白味の存する所にて学堂の仕事常に必しも学堂らしからず、時ありて梁山泊の豪傑連が額を(あつ)めて(ひそか)に勢力拡張策を講ずるなど随分変梃来(へんてこ)な事ありてその都度提調先生(ひそ)かに自ら当代の蕭何(しょうか)を以て()るといふ、こんな学堂が世間にまたとあるべくも覚えず候、然れどもおもしろみのある所はまたくるしみの伏在する所にてその間一種いふべからざる苦痛も有之、この苦痛最初はいたって軽微なりしも仕事に深入すればするほど重かつ大になりゆきて時には殆んど耐へがたき事も有之候、小生の力()くこの苦痛に()ち四囲の困難を排除する事を得ば他日多少の事功を成就し得んも、この苦痛と困難とに打負くれば最早それまでにて滅茶々々に失敗致すべく、さうなつたら()むを得ず日本へ遁帰(にげかえ)りて再び生命を一枝の筆に托せざるを得ざるべきも、先づそれまでは死力を尽して奮闘の覚悟に候、北京の町の汚なさお話になつたものにあらず、宮中(かわや)と申候共同便所の如きもの往来の両側に処々散在すれども日本の共同便所と同日に談ずべくもなし、ただ大道上に一空地を劃し低き土壁を(めぐ)らしたるのみにて糞壺(くそつぼ)もなければ小便(だめ)もなく皆垂流(たれなが)しなり、然れども警察の取締皆無のため往来の人随所に垂流すが故に往来の少し引込みたる所などには必ず黄なるもの累々として(うずたか)く、黄なる水(たん)として(くぼ)みに(たま)りをりて臭気紛々として人に(せま)る、そのくせ大通にあつては両側に櫛比(しっぴ)せる商戸金色燦爛(さんらん)として遠目には頗る立派なれど近く()れば皆芝居の書割然(かきわりぜん)たる建物にて誠に安ツぽきものに候、支那は爆竹(ばくちく)の国にて冠婚葬祭何事にもこれを用ゐ、毎夜殆んどパチパチポンの音を聞かざるはなし、日本の花火はこれが進化したるものにはあらざるべきか、その他衣食住において日本に類似せる点多く、さすが昔は東洋文明の卸元(おろしもと)たりし面影どこかに残りをり候――

 天晴(あっぱれ)東洋の舞台の大立物(おおだてもの)を任ずる水滸伝的豪傑が寄って(たか)って天下を論じ、提調先生昂然(こうぜん)として自ら蕭何を以て処るという得意の壇場が髣髴としてこの文字の表に現われておる。

 真実、提調時代の二葉亭は一生の中最も得意の時であった。俸禄も厚く、信任も重く、細大の事務(ことごと)く掌裡に帰して裁断を待ち、監督川島不在の時は処務を代理し、隠然副監督として仰がれていた。然るにこの得意の位置をどうして抛棄するようになった()、その原因が判然しないが、()()く止むに止まれない或る事情があって、監督川島及び僚友が頻りに留任を勧告するをも固く謝して、決然辞任して帰朝した。この間の事情は当時の消息を知るものの間にも種々の説があって判然しないが、仮に川島あるいは僚友との間に多少の面白からぬ衝突があったとしても、その衝突は決して辞職に値いするほどの大事件ではなかったらしい。ツマリ二葉亭の持前(もちまえ)の極端な潔癖からしてそれほどでもない些細(ささい)な事件に殉じて身を潔くするためらしかった。二葉亭自身もこの事については余り多く語らなかった。「腹を立てるほどの事でもなかったので、()と早まり過ぎたのサ、」とばかり軽くいっていた。

 間もなく日露の国交が破裂した。北京に在留中から露西亜の暴状を憤って、同志と共にしばしば公使館に詰掛けて本国政府の断乎たる決心を迫った事もあり、(かね)てからこの大破裂の生ずべきを待設けて晴れの舞台の一役者たるを希望していたから、この国交断絶に際して早まって提調を辞して北京を去ったのを内心(ひそ)かに残念に思っていたらしかった。「こう早く戦争が初まるなら()う少し北京に辛抱しているのだった、」とは開戦当時私に洩らした述懐であった。

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