9話 九 哈爾賓行
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二葉亭独特の実業論・女郎屋論・哈爾賓の生活及び奇禍
が、二葉亭は長く語学校の椅子に安んずる事が出来なかった。本と本と教職に就いたは恩師の推薦を徳としたためで、教育家を一生の仕事とするツモリはなかったのだから、暫らくすると一時鎮静した実業熱が再び沸熱して来た。
あたかもその時分、暫らく西比利亜に滞留していた旧同窓の佐波が浦塩から帰朝してしばしば二葉亭を訪問し、新たに薩哈連から浦塩へ渡航した一人の友人からも度々手紙が来て、浦塩方面の消息が頻りに耳に入るので、機会を待構えていた実業上の野心は忽ちムクムクと頭を擡上げて食指俄に動くの感に堪えなかった。
二葉亭の実業というは単なる金儲け一天張ではなかった。実業側の友人から余り対手にされなかったはこれがためであったが、二葉亭の夙昔の希望からいえば一貫した国際的興味を有する問題であった。二葉亭にいわせると、日本人が浦塩あたりで盛んに商売するのは、当人自身は金儲けより外考えないでも、これが即ち日本の勢力を扶植する所以であるから、商売の種類は何であろうとも関わぬ、海外の金儲けは即ち国富の膨脹、国権の伸長、国威の宣揚である。極端な例を挙げれば、醜業婦の渡航を国辱である如く騒ぐは短見者流の島国的愛国論であって、醜業婦の行く処必ず日本の商品を伴い日本の商業を発達させ日本の地盤を固めて行く。東露に若干たりとも日本の商業を拡げる事が出来たのは全く醜業婦のお庇である。露国は自国の商工業を保護するために外国貨物に重税を課し、例えば日本の燐寸の如き一本イクラに売らねばならぬほどの準禁止税を賦課している。が、こういう極端な保護政策を取って外国貨物を塗絶しようとしているが、独り外国醜業婦の移入に限っては殖民政策の必要から非常に歓迎し、上陸後もまた頗る好遇して営業の安全及び利益を隠然保護している。浦塩における日本の商売が盛んに発展しつつあるは畢竟醜業婦の背後に隠れて活動する結果であるから、この特恵に乗じていよいよ益々多数の醜業婦を輸出するは取も直さず益々日本の商業を振う所以である、というのがその頃しばしば二葉亭に力説された醜業婦論であった。
二葉亭の醜業婦論は一時交友間に有名であった。その頃二葉亭の家に出入したものは大抵一度は醜業婦論を聞かされた。二葉亭の説に由ると、日本の醜業婦の勢力は露人を風化して次第に日本雑貨の使用を促がし、例えば鰹節が極めて滋味あり衛養ある食料品として露人の間に珍重されて、近年俄に鰹節の輸出を激増したのは露人が日本の醜業婦に教えられた結果である。かつ日本の醜業婦の露人に落籍されるものが益々多く、中には案外なる上流階級の主婦となるものさえあって、これがために日本風の生活が露人間に流行し、日本品でなければ上等でないように思うものが段々殖えて来た。その結果が日本の商品の販路拡張となり、日露両国民の相互の理解となり、国際上の無言の勢力となるから、もし資本家の保護があれば国際上の最良政策としても浦塩へ行って女郎屋を初めるといっていた。この女郎屋論は座興の空談でなくして案外マジメな実行的基礎を持ってるらしかったが、余り突梯だから誰もマジメに聞かなかった。二葉亭と実業というさえも大抵な人の耳には奇怪に響いた。ましてや二葉亭と女郎屋というに到っては小説の趣向を聞くと同じ興味を以て聞くより外なかった。
左に右く二葉亭の実業というは女郎屋に限らず、総て単なる金儲けではなかった。金に逼迫していたから金も儲けたかったろうが、金を儲ける以外に大なる経綸があった。その経綸が実業家の眼から見るというべくして行うべからざる空想であったから、偶々その方面の有力者に話しても聞棄てにされるばかりで話に乗ってくれなかった。
然るに浦塩の友なる佐波武雄が浦塩の商人徳永と一緒に帰朝して偶然二葉亭を訪問したのが二葉亭の希望を果す機会となった。佐波はそれまで二葉亭から度々浦塩渡航の希望を洩らされても、文人の性格と商売とは一致しないという理由から不理を説いていたが、どういうキッカケからか三人が相会して一夕の交歓を尽した席上、徳永商店の顧問として二葉亭を聘そうという相談が熱した。その頃浦塩で最も盛んに商売していたのは杉浦龍吉で、杉浦が露国における日本の商人を代表していた。徳永は新進であったが、杉浦と拮抗して大いに雄飛しようとし、あたかも哈爾賓に手を伸ばして新たに支店を開こうとする際であったから、どういう方面に二葉亭の力を煩わす意があったか知らぬが、哈爾賓の支店に遊び半分来てくれないかといった。二葉亭は徳永とは初対面であったが、徳永の人物を臂を把って共に語るに足ると思込み、その報酬は漸く東京の一家を支うに過ぎない位であったが、極めて束縛されない寛大な条件を徳として、予ての素志を貫ぬく足掛りには持って来いであると喜んで快諾した。かつあたかも語学校の校長高楠と衝突して心中不愉快に堪えられなかった際だったから、決然語学校の椅子を抛棄して出掛ける気になった。多くの友人の中には折角足場の固くなり掛けた語学校の椅子を棄てるを惜んで切に忠告するものもあった。家族は前途を危ぶんで余り進まなかった。加之ならず語学校の僚友及び学生は留任を希望して嘆願した。が、二葉亭は宝の山へ入る如き希望を抱いて、三十五年の五月末に断然語学校を辞職すると直ちに東京を出発した。
この西比利亜行については色々な説がある。啻に徳永商店の招聘に応じたばかりでなく、別に或筋からの使命を受けていたという説もある。が、恐らくは一個の想像説であろう。二葉亭は早くから国際的興味を有して或る場合には随分熱狂していた。が、秘密の使命を果すに適当な人物では決してなかった。二葉亭の人物を見立ててそんな使命を托する人もあるまいし、托せられて軽率に応ずる二葉亭でもなかった。かつもしそんな使命を受けていたなら、二葉亭は最少し豊かであるべきはずであったが、哈爾賓到着後は万事が予想と反して思うようにならなかったのみならず、財政上にもまた頗る窮乏して自分自身はなお更、留守宅への送金もまた予期の如くならざるほど頗る困迫していた。
東京を出発する前、二葉亭は暇乞いに来て、「何も特別の用務はないので、ただ来てさえくれれば宜いというのだ。露西亜では官憲の交渉が七面倒臭いから、多分そんな方面にでも向ける意だろう。左に右く来いというから行って見るので、その中に面白い仕事が見付かったらそっちへ行ってしまうのサ、」と無造作にいった。
が、哈爾賓へ行って何をした? 縦令聊かにもせよ旅費まで出して呼ぶからには必ず何かの思わくが徳永にあったに違いない。が、二葉亭が着くと間もなく哈爾賓では猛烈な虎疫が流行して毎日八百五十人という新患者を生じ、シカモ防疫設備が成っておらんので患者の大部分が斃れてしまうという騒ぎであったから、市民は驚慌して商売は殆んど閉止してしまった。搗てて加えてその頃から外国人、殊に日本人に対して厳しく警戒し、動やともすると軍事探偵視して直ぐ逮捕した。或る日本人は馬車の中で寺院の写真を見ていた処を警吏に見咎められて十日間抑留された。また他の或る日本人は或る工事を請負って職工を捜すため浦塩哈爾賓間を数度往復したので三カ月の禁錮に処された。日本人という日本人は皆こういう常識では理解されない無法な圧迫を受けたから手も足も出せなくなった。大いに発展するツモリの徳永商店も手を伸ばすどころか圧迫されて縮少しなければならなくなった。
搗てて加えて哈爾賓へ着く草々詰らぬ奇禍を買って拘留された。当時哈爾賓では畜犬箝口令が布かれ、箝口せざる犬は野犬と見做されて撲殺された。然るに徳永商店では教頭の飼犬の中の一頭だけ轡を施こして鎖で繋いだが、残りの何頭かは野犬として解放してしまった。すると或る日、その中の一頭が巡査に吠付き、追われて元の飼主たる徳永商店に逃込んだのを巡査は追掛けて来て、店から引摺出して店前で撲殺し、かつ徳永を飼主と認定するゆえ即時に始末書を警察へ出せと厳命した。丁度二葉亭は居合わしたので不法を詰ってかれこれ押問答をすると、無法にも二、三人の巡査が一度に二葉亭に躍り蒐って戸外へ突飛ばし、四の五のいわさず拘引して留置檻へ投げ込んでしまった。徳永店員を初め在留日本人はこの報を得て喫驚し、重立つものが数人警察署へ出頭して嘆願し、二葉亭が徳永店員でない事を証明したので一時間経たない中に放還され、同時に二葉亭の身分や位置が解ったので、その晩巡査部長がわざわざ来訪して全く部下の一時の誤解であったから何分穏便にしてくれと平詫まりに陳謝して、事件は何でもなく容易に落着したが、詰らぬ事で飛んだ目に会った。二葉亭が軍事探偵の嫌疑で二タ月か三月も拘禁されたように噂され、これに関聯して秘密の使命を受けていたかのような想像説まで生じたのは多分この事が訛伝されたのであろう。事実は犬の間違であったのだ。
こんな咄にもならない馬鹿々々しい目に会って二葉亭は幾分か気を腐らせた。もともと初めから徳永商店に長く粘り着いてる心持はなく、徳永を踏台にして他の仕事を見付ける意でいたのだから、日本人の仕事が一も二もなく抑えつけられて手も足も出せない当時の哈爾賓の事情を見ては、この上永く沈着く気になれなくなった。そこで哈爾賓を中心として北満一帯東蒙古に到るの商工業、物産、貨物の集散、交通輸送の状況等を細さに調査した後、終に東清鉄道沿線の南満各地を視察しつつ大連、旅順から営口を経て北京へ行った。