二葉亭四迷の一生

13話 十三 第二期の失意煩悶

3,574字 約7分 2011年7月20日 公開

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朝日社内における葛藤不平・国際的危機・『平凡』前後・実際的抱負

 が、それにもかかわらず、世間は盛んに嘖々(さくさく)して歓迎し、『東朝』編輯局は主筆から給仕(きゅうじ)に到るまでが(こぞ)って感歎した。前には満蒙に関する二葉亭の論策研究を虐待した『大朝』の編輯局が二葉亭の籍が大阪にあるを名として当然大阪の紙上にも載すべきものだと抗議を持出した。各文学雑誌は争って文学及び思想に関する論文または談話を請うて載せ、社会の公人としての名は益々文人として輝いた。

 二葉亭は益々不平だった。半世の夙志(しゅくし)(すべ)て成らずに、望みもしない文人としての名がいよいよ輝くのが如何にも不愉快で(たま)らなかった。が、世間は如何に見ようとも、自分の使命は国際的舞台にあるをあくまでも任じて、少しも志望を曲げずに極東時局に関する内外の著書は得るに(したが)って精読し、内外新聞の外交に関する事項は(つぶ)さに究めて切抜きを保存し、殊に『外交時報』は隅から隅までを反覆細読していた。(二葉亭は『倫敦(ロンドン)タイムス』『ノーウ・オウレーミヤ』『モスコー・ウェドモスチ』等の英露及び支那日本の外字新聞数十種に常に眼を()らしていた。『外交時報』は第一号から全部を取揃(とりそろ)えて少しも座右から離さなかった。)

 かくの如く全力を傾倒して国際問題を鋭意研究したのは()と本と青年時代からの夙志であったが、一時人生問題に没頭して全く忘れていたのが再燃したには自ずから淵源(えんげん)がある。日清戦争の三国干渉の時だった。或る晩慨然として私に語った。「日本はこれから先き世界を対手(あいて)として戦う覚悟がなけりゃアならん。東洋の片隅に小さくなって蹲踞(うずく)まってるなら知らず、(いささ)かでも頭角を出せば直ぐ列強の圧迫を受ける。白人聯合して日本に迫るというような事が今後ないとは限らん。それも圧迫を受けるだけなら、忍んで小さくなって辛抱(がまん)出来ない事もなかろうが、圧迫が進んで侮辱となり侵略となったらドウする。国際公法だの仲裁条約だのというはまさかの時には何の役にも立たない空理空文である。欧洲列強間の利害は各々相扞格(あいかんかく)していても、根が同文同種同宗教の兄弟国だから、(いざ)となれば平時の葛藤を忘れて共通の敵たる異人種異宗教の国に相結んで(あた)るは当然あり得べき事だ」と、人種競争の避くべからざる所以(ゆえん)を歴史的に説いて「この覚悟で国民の決心を固め、将来の国是(こくぜ)を定めないと、何十年後に亡国の恨みがないとも限らない、」と反覆痛言した事があった。二葉亭の青年時代の国際的興味が再び熱沸して来たのはその頃からで、この憂国の至誠から鋭意熱心に東洋問題の解決を研究するので、決して大言壮語を喜ぶ単純なる志士気質やあるいは国家を(めし)(たね)とする政治家肌からではなかった。二葉亭の文学方面をのみ知る人は政治を偏重する昔の士族気質から産出した気紛れのように思うが、決して《そ》んな浮いた泡のような空想ではなかったので、牢乎(ろうこ)として抜くべからざる多年の根強い根柢があったのだ。今にして思うと、三十年前に人種競争の止むを得ざる結果から欧亜の大衝突の当然来るべきを切言した二葉亭の巨眼は推服すべきものであった。

 明治四十年の六月、突然急痾(きゅうあ)に犯されて(ほと)んど七十余日間病牀(びょうしょう)の人となった。それから以後著るしく健康を損じて、平生健啖(けんたん)であったのが(にわか)に食慾を減じ、或る時、見舞に行くと、「この頃は朝飯はお廃止(やめ)だ。一日に一杯ぐらいしか喰わない。夜もおちおち寝られない、」といった。「そりゃ不可(いか)ん。転地したらどうだい、神経衰弱なら転地が一番だ、」というと、「転地なんぞしたって(なお)るもんか。社の者も(しき)りと心配して旅行しろというが、海や山よりは町の方が好きだ。なアに、僕の病気は何でもない、小説を書かないでも済むようにさえしてくれたらその瞬間に直ぐ癒ってしまう、」といって淋しく笑った。

 一体が負け嫌いの病気に勝つ方で、どんなに苦しくても滅多に弱音(よわね)を吹かなかった。官報局を罷めてから間もなく、関節炎に(かか)って腰が立たなかった時も元気は(すこぶ)る盛んで、談笑自如として少しも平生と変らなかった。その時から比べると、病気はそれほど重くも見えなかったが、元気は(まる)()くなって頗る銷沈(しょうちん)していた。豈夫(まさ)かに嫌いな文学を強いられるばかりで病気になったとも思わなかったが、何となく境遇を気の毒に思って傷心に堪えなかった。

『平凡』の予告が現われた時、二葉亭が昔しから推奨したゴンチャローフの名作を憶い浮べて題名に興味を持ったので直ぐ手紙を送った。文句は忘れたが、意味はこうである。――『平凡』という題名が如何にも非凡で面白い、(というのは前にもいった通り『其面影』の題名に関して往復数回した事があったからで、)定めし面白いものであろうと(たのし)みにしておる、()()く現に文学を以て生活しつつある以上は仮令(たとい)素志でなくても文学にもまた十分身を入れてもらいたい、人は必ずしも一方面でなければならないという理由はないから、文人であって政治家あるいは実業家を兼ねるのも妙であろう、政治あるいは外交に興味を有するが故に他の長所である文学を廃するというは少しも理由にならない、かついやしくも前途に平生口にする大抱負を有するなら努めて寛闊(かんかつ)なる襟度(きんど)を養わねばならない、例えば西園寺(さいおんじ)侯の招宴を辞する如きは時の宰相たり侯爵たるが故に謝絶する詩人的狷介(けんかい)を示したもので政治家的または外交家的器度ではない――という、こういう意味の手紙であった。

 無論この手紙を送ったのは二葉亭と議論する(つもり)でも何でもなかった。ただ『平凡』の題名に興味を持った余りに筆を走らしたので、陶庵(とうあん)侯招宴一条の如きは二葉亭の性質として応じないのは百も二百も承知していて少しも不思議と思っていないから、二葉亭の気質を能く理解(のみこ)んでる私が(あらた)めて争うような事は決して()ない。無論また数行の手紙で二葉亭を反省させあるいは屈服する事が出来ようとも思っていなかった。

 然るにこの位な揶揄(やゆ)弄言(ろうげん)は平生面と向って談笑の間に言合(いいあ)うにかかわらず、この手紙がイライラした神経によっぽど(さわ)ったものと見えて平時(いつ)にない怒気紛々たる返事を直ぐ寄越(よこ)した。曰く、「平凡は平凡(なり)、それを(しい)て非凡とおつしやるなら非凡でもよろし、されど平凡はやはり平凡也、首相の招待に応ぜざりしはいやであつから也、このいやといふ声は小生の存在を打てば響く声也、小生は是非を知らず、可否を知らず、ただこれが小生の本来の面目なるを知りたる而已(のみ)、」云々と。それから最後に、「いずれその中に行く」と私が書いたに対して、「謀面(ぼうめん)は今時機に(あら)ず、やがて折あるべし、」と結んで、手もなく当分面会謝絶を通告して来た。私が二葉亭から請取った何十通の手紙の中でこれほど墨痕(ぼっこん)淋漓(りんり)とした痛快なものはない。青筋出して肝癪(かんしゃく)起した二葉亭の面貌(めんぼう)が文面及び筆勢にありあり彷彿して、当時の二葉亭のイライラした極度の興奮が想像された。が、腹の立ったありのままが少しも飾られないで表白されているだけに、二葉亭の面目が歴々(ありあり)と最も能く現われていた。このいやというが二葉亭の存在を打てば響く声であるといったは何よりも能く二葉亭を説明している。

 二葉亭の文学嫌いは前にいったように単純な志士気質や政治家肌からではなかったが、それほどに懊悩(おうのう)してジリジリと興奮するまで文学を嫌い抜いていたのは、一つは「このいやという存在の声」が手伝っていたのである。二葉亭は何事についても右といえば左、左といえば右という一種の執拗な反抗癖があって、終局の帰着点が同一なのが明々白々に解っていても先ず反対に立って見るのが常癖であった。如何(いか)なる得意のものでも()められると(にが)い顔をして、如何なる不得意のものでも(けな)されると一生懸命になって弁明した。仮にもしその欲する如くに政治家または実業家として相当の位置を作らしめたなら、その時は恐らく余は政治家に非ず、実業家に非ずといったかも知れない。これが即ち長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)の存在の声であったのだ。

 尤も文学を嫌って実際界に志ざしたは(あなが)ちこの一癖からばかりでなく、実際方面における抱負も或る人々の思うように万更(まんざら)詩人的空想から産出(うみだ)したユートピヤ的あるいは志士気質の自大放言ではなかった。ちょっと聞けば馬鹿々々しい浦塩の女郎屋論でも、底を叩くと統計やら報告やら頗る周到細密な数字的基礎があった。殊に北京から帰朝した後の説には鑿々(さくさく)傾聴すべき深い根柢があった。無論実際の舞台に立たせたなら直ぐ持前の詩人的狷介や道学的潔癖が飛出して累をなしたであろうが、それでももしいよいよその方面に驥足(きそく)を伸ぶる機会が与えられたら、強ち失敗に終るとも()められなかった、あるいは意外の功を挙げないとも計られなかった。()()く終に一回もこの自信ある手腕を試みる機会を与える事が出来ずにしまったのは、二葉亭自身の一生の恨事であったのみならず、二葉亭の知友としてもまた頗る遺憾であった。

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