三十年前の島田沼南

4話

2,551字 約5分 2011年7月26日 公開

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 沼南は廃娼(はいしょう)を最後の使命として(たたか)った。が、若い時には相応に折花攀柳(せっかはんりゅう)の風流に遊んだものだ。その時代の沼南の消息は易簀(えきさく)当時多くの新聞に伝えられた。十年前だった、塚原靖(つかはらしずむ)島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑違(はたけちが)いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に()くと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と渋柿園(じゅうしえん)老人は例の磊落(らいらく)な調子で、「島田の奴が馬を引張(ひっぱ)って来たので、仕方がないから有合(ありあ)いのものを典じて始末をつけたが、その穴埋(あなうめ)をしなけりゃならん。そこで島田が或る本屋を口説(くど)いたところが、数学の本を書いてくれるなら金を出そうというので、それから島田がドコからか原書を借出して来て、二人して一週間ばかりで書上げたのがアノ本サ。早速金に換えて(ふとこ)ろが(あった)まったので、サア繰出せと二人して大豪遊を極めたところが、島田の奴はイツマデもブン流して帰ろうといわんもんだから、とうとう遣い果して復た馬を()れて戻るというわけサ。その時分の島田はソリャアでれでれして(しり)が腐ってしまうンだからカラ始末に行かなかった」と昔を憶出(おもいだ)して塚原老人はカラカラと笑った。この頃の或る新聞に、沼南が流連して馴染(なじみ)の女が病気で()ている枕頭(ちんとう)にイツマデも附添って手厚く看護したという逸事が載っているが、沼南は心中(しんじゅう)仕損(しそこな)いまでした遊蕩児(ゆうとうじ)であった。が、それほど情が(こま)やかだったので、同じ遊蕩児でも東家西家と花を摘んで転々する浮薄漢ではなかったようだ。

 沼南は本姓鈴木で、島田家の養子であった。先夫人は養家の家附(いえつき)娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、(おも)われて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が大隈(おおくま)参議と進退を(とも)にし、今の次官よりも重く見られた文部(ごん)大書記官の栄位を弊履の如く一蹴(いっしゅう)して野に下り、矢野文雄(やのふみお)小野梓(おのあずさ)と並んで改進党の三領袖(りょうしゅう)として声望隆々とした頃の先夫人は才貌(さいぼう)双絶の艶名(えんめい)を鳴らしたもんだった。

 その頃私は番町の島田邸近く(すま)っていたので、度々島田夫人と途中で行逢(ゆきあ)った。今なら女優というような(まぶ)しい粉黛(ふんたい)を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良人(おっと)沼南と同伴でない時はイツデモ小間使(こまづかい)をお(とも)につれていたが、その頃流行した前髪(まえがみ)を切って前額(ひたい)()らした束髪(そくはつ)で、嬌態(しな)を作って桃色の小さいハンケチを()り揮り香水の(にお)いを四辺(あたり)(くん)じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼を《みは》って美貌と美装に看惚(みと)れたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流行(はや)らなかったが、沼南はこの艶色(した)たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄席(よせ)へ連れてったり縁日を冷かしたりした。孔雀(くじゃく)のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って益々(ますます)夫人の艶名が騒がれた。

 九段(くだん)の坂下の近角常観(ちかずみじょうかん)の説教所は()とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後(うしろ)で割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻(ふりかえ)って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁(しらかべ)のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩を(たた)いたり(ひざ)(ゆす)ったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して高座(こうざ)よりは沼南夫妻のイチャツキの方に気を取られた。沼南の傍若無人の高笑いや夫人のヒッヒッと(くす)ぐられるような笑いが余り耳触(みみざわ)りになるので、「百姓、静かにしろ」と罵声(ばせい)を浴びせ掛けられた。

 数年前物故(ぶっこ)した細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に邂逅(でっく)わした。その頃はマダ合乗俥(あいのりぐるま)というものがあったが、沼南は夫人と共に一つ俥に同乗して葬列に加わっていた。一体合乗俥というはその頃の川柳や都々逸(どどいつ)の無二の材料となったもので、狭い俥に両性がピッタリ粘着(くっつ)き合って一つ膝掛に(くる)まった容子は余り見っともイイものではなかった。()てて加えて沼南夫人の極彩色にお化粧した顔はお葬い向きでなかった。その上に間断なくニタニタ笑いながら沼南と喃々(なんなん)私語して行く(てい)たらくは(ひつぎ)を見送るものを顰蹙(ひんしゅく)せしめずには()かなかった。政界の名士沼南とも知らない行人の中には目に余って、あるいは岡焼(おかやき)半分に無礼な罵声を浴びせ掛けるものもあった。

 その頃は既に鹿鳴館(ろくめいかん)の欧化時代を過ぎていたが、欧化の余波は当時の新らしい女の運動を惹起(じゃっき)した。沼南は当時の政界の新人の領袖(りょうしゅう)として名声藉甚(せきじん)し、キリスト教界の名士としてもまた儕輩(せいはい)()されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚(めざ)めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。

 丁度巌本善治(いわもとよしはる)の明治女学校が創立された時代で、教会の奥に隠れたキリスト教婦人が街頭に出でて活動し初めた。九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自(やじまかじことじ)を初め今は(とっ)くに鬼籍に入った木村鐙子(とうこ)夫人や中島湘烟(なかじましょうえん)夫人は皆当時に崛起(くっき)した。国木田独歩(くにきだどっぽ)を恋に泣かせ、有島武郎(ありしまたけお)の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿(とよじゅ)夫人はその頃のチャキチャキであった。沼南夫人はまた実にその頃の若い新らしい側を代表する花形であった。

 今日の女の運動は社交の一つであって、貴婦人階級は勿論だが、中産以下、プロ階級の女の集まりでもとかくに着物やおつくりの競争場になりがちであるが、その頃のキリスト教婦人は今の普通の婦人は勿論、教会婦人と比べても数段ピューリタニックであって、若い婦人の集りでも喪に包まれたようで色彩に乏しかった。その中で沼南夫人は百舌(もず)(からす)の中のインコのように美しく飾り立てて脂粉と色彩の空気を漂わしていた。

 この五色で満身を飾り立ったインコ夫人が後に沼南の外遊不在中、沼南の名誉に泥を塗ったのは当時の新聞の三面種ともなったので誰も知ってる。今日これを繰返しても決して沼南の徳を累する事はあるまい。徳を累するどころか、この家庭の破綻(はたん)を処理した沼南の善後策は恐らく沼南の一生を通ずる美徳の最高発現であったろう。

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