6話 六 悲惨な最後
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美妙の文壇生活の最高調は『都之花』時代であったが、社会生活としての最得意は平永町に新築した頃であったろう。駿河台の暗ぼったい旗本屋敷の長屋から移転したので、タシカ今の神田キネマの辺であった。軒並の町家の中で目立った相当に大きな門構えの二階建で、間数もかなり多かったらしい。木口は余り上等とも思わなかったが、左に右く木の香のする明るい新築だった。今と違ってマダ操觚者の報酬の薄かったその頃に三十になるかならぬかの文筆労働者でこれだけの家を建築したのは左も右くも成功者であった。
書斎は二階であったが、椅子テーブル式で、クローム画の額や、ブロンズや、西洋家具の古道具屋から仕入れたものをゴテゴテ列べ、何のツモリか知らぬが弾けもせぬヴァイオリンが壁へ掛けてあった。今なら文化生活で、美妙の得意はこの安価洋風装飾に現れていた。が、その頃は字書を編纂していたので文壇人としては既に一歩を降り坂に踏入れていたのだ。
美妙を訪問したのは前後三、四回しかなかったが、この平永町の新居を偶然通り縋りに尋ねたのが最後であった。僅か二十分ほど話して美術学校の一年生ぐらいが作ったらしい木雕の牛を見せられたが、それぎり美妙とは会わなかった。自分ばかりじゃない、その頃から以後は美妙が時折寄稿した雑誌の編輯者以外には美妙と往来したものは殆んどなかったろう。
それでも稲舟と結婚した時は両人連名で益々御愛顧を願うというような開業の引札然たる活版摺の通知を交友間に配った。が、新婚のお祝いをする遑がない中に最う二人の恋の破綻が新聞で剔抉かれた。それから以来はラムネを作って損をしたとか、公園芸妓を引入れたとかいうような面白くない風説を新聞の三面で聞くばかりで、文壇人としての消息はまるきり絶えてしまった。それから二、三年経ってから復たポツポツと美妙の名が低級な雑誌に見え出して、そういう雑誌の発行者や編輯者の口から噂を聞く事があったが、お情に原稿を買ってやるというような口吻で美妙の気の毒な境遇が想像された。書いたものもまた色も香も艶も生気もない萎れた花の憐れさを思わせるようなものばかりだった。
二葉亭が没した時、諸家の追懐談を集めた追悼録を作ろうとして少年時代の友たる美妙斎へも寄稿を依頼した。その時の美妙の返事は敗残者の卑下した文体で、勝誇った寵児のプライドに充ちた昔の面影は微塵も見られないで惻隠に堪えられなかった。
それから一、二年経ってからであろう、美妙の訃の伝わったのは。最後の隠れ家は駒込の伝中辺だと聞いたが、丁度旅行していたし、十何年間もまるで音信不通であったし、それ以前とても親友というほどの関係でなかったから葬儀に行かなかったが、後に聞くと送棺者がただ僅かに三、四人だったそうだ。自ら世を狭くしたのだとはいえ、誠に気の毒な最後であった。
それから数月経って聞いた咄だが、最後は石橋思案と丸岡九華が専ら世話をしたそうだ。いよいよ重体となってから、九華はシュークリームが美妙の大好物であると聞いて見舞に一と折持って行った。美妙は大変喜んだので、家人も厚く感謝して大切にし、病人の外は子供にさえも手をつけさせなかったそうで、黴の生えたシュークリームが臨終の枕頭に残っていたそうだ。日本の言文一致の先駆者(あるいは創始者)として文壇の風雲を捲起した一代の才人の終焉として何たる悲惨の逸事であろう。こういう悲惨な運命を速いたのは畢竟美妙自身の罪であったが、身から出た錆であったにしても、日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である。
(大正十三年九月補修再録)