忠僕

2話

1,521字 約3分 2015年2月5日 公開

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 先代の在世中には(ほと)んど縁切り同様だった先代の弟、今の嘉吉には叔父に当る男が、この頃はちょくちょくと、沼津から顔を出した。その度に久助は苦い顔をした。

 その男は、来るときまって、嘉吉さんや、と甘ったるい声を出しては、幾ばくの金を借りて行った。今度沼津へ草競馬を始めようかと思ってな、そりゃお前、ど偉い儲けだ。それでその少しばかり、運動の資金(もと)が要るんじゃが、どうだろう、え? と云われると、嘉吉はいつものように人の好い顔を崩して、そりゃ良さそうですな。そして三島の銀行の小切手を書いてやるのだった。

 叔父は沼津の芸者を落籍()いて、又三月程経った、乗合に乗ってぽかぽかと、この山の宿へやって来た。

 ブリキの鑵へ印刷する工場を作りたいのじゃがどうだろう、え? 嘉吉さん、……

 主人と沼津の男の会話が、開け放たれた二階の窓から洩れて来る。と、久助は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをしては、釣竿をかついで川へ出た。

 この土地は低い山の懐に抱かれていた。その底を、石の多い谷の河原に、綺麗な水が瀬をなして流れていた。久助は片手にひっかけ鉤をつけた釣竿を持ち、片手に覗眼鏡(のぞきめがね)を動かしては、急湍(きゅうたん)をすかせながら腰まで()かして川を(わた)った。こうやって釣った鮎は毎日の客の膳に上るのだった。

 久助は先代の時から、毎日この鮎だけを釣るのが仕事だった。この村で鮎を釣るのは一番だと云われていた。多い日には二十本もあげた。

 久助は今、岩に腰をかけて、煙管(キセル)でぷかぷかと一服休んでいる。紫色の煙が澄み切った秋の空気の中を静かに上っている。赤蜻蛉(とんぼ)がすいすいと飛んでいる。

 向う岸の竹藪に夕陽がわびしくさしているのを眺めながら、久助はぼんやりと考えていた。

 あんなお人好しで、人を信じる事だけしか知らない若主人じゃ、今にあの竹藪もなあ、と深い溜息を()いた。

 その時、丁度(ちょうど)頭の上で、ガタガタと音がした。久助はびっくりして空を見あげた。

 川べりに生えた栗の大木の梢に、釣橋がガタガタと揺れている。青白い女の顔が、山と山で細長く区切られた夕暮の空の中で、晴れやかに笑っている。

 久助は煙管をぽんと岩角にぶっつけて、おしまかと云った。

 釣橋のたもとに一軒家があった。土地の曖昧宿で、久助は給金を皆んなそこで飲んでしまった。おしまはそこのお酌だった。久助は惚れていたが、おしまは何とも思っていなかった。

 久助さんにゃ、鮎は釣れてもおしまは釣れめえ、と朋輩がからかった。久助は怒って、三日も口をきかなかった。

 久助はどうしても今晩おしまに会い度いと思ったが、まだ給金を貰っていなかった。水を入れた木箱の中の鮎を数えると、彼は立上った。そして岩を飛び飛び、憂鬱な顔をして宿へ帰って来た。

 開け放たれた二階の窓からは、ブリキの鑵へ印刷する工場の話がまだ続いていた。大分お酒がまわっているらしく、陽気な男の笑い声が聞えていた。久助はグビグビと咽喉を鳴らした。

 流れを引いたいけすに鮎を放つと、板場の註文だけに網にいれて台所へ渡し、自分の部屋に帰って着物を着更え、冷えた身体をお湯に浸かした。釣橋の上から笑ったおしまの身体が、そこの湯気の中から白く浮んで彼を招いた。

 ぼんやりと部屋に帰った久助はぼんやりと朋輩の行李(こうり)を開けていた。そして、その底に入れてあった蟇口(がまぐち)の中から、五円の札を一枚抜きとると、そのままぼんやりと夜道を歩いて行った。

 夜中。――ぐでんぐでんに酔払って帰って来た久助は、宿の裏口で、いきなり朋輩の男に殴られた。何をするんでえ、と云うと又殴られた。そこへ主人が起きて来て朋輩の男を(なだ)めた。その男は五円の札を主人から貰って、ぶつぶつ云いながら、寝て了った。久助も身体を曲げて、隅の方に酔い寝して了った。

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