10話 EDITOR'S NOTES(3)
読み方を変える
△クロポトキンの瑞西より歸つたのは千八百七十三年か四年であつた。
△文中にあるカラコオゾフといふのは、千八百六十六年四月、亞歴山二世がサムマア・ガアデンから出て來て馬車に乘らうとしてるところを狙撃し、狙ひがはづれたために目的を達せずして捕縛された男。
相互扶助(ソリダリチイ)といふ言葉は殆どクロポトキンの無政府主義の標語になつてゐる。彼はその哲學を説くに當つて常に科學的方法をとつた。彼は先づ動物界に於ける相互扶助の感情を研究し、彼等の間に往々にして無政府的――無權力的――共同生活の極めて具合よく行はれてゐる事實を指摘して、更にそれを人間界に及ぼした。彼の見る處によれば、この尊い感情を多量に有することに於いても他の動物より優れてゐる人類が、却つて今日の如くそれに反する社會生活を營み、さうしてそのために苦しんでゐるのは、全く現在の諸組織、諸制度の惡いために外ならぬのである。權力といふものを是認した結果に外ならぬのである。
この根柢を出發點としたクロポトキン(幸徳等の奉じたる)は、その當然の結果として、今日の諸制度、諸組織を否認すると同時に、また今日の社會主義にも反對せざるを得なかつた。政治的には社會全體の權力といふものを承認し、經濟的には勞働の時間、種類、優劣等によつてその社會的分配に或る差等を承認しようとする集産的社會主義者の思想は、彼の論理から見れば、甲に與へた權力を更に乙に與へんとするもの、今日の經濟的不平等を來した原因を更に名前を變へただけで繼續するものに過ぎなかつた。相互扶助を基礎とする人類生活の理想的境地、即ち彼の所謂無政府共産制の新社會に於いては、一切の事は、何等權力の干渉を蒙らざる完全なる各個人、各團體の自由合意によつて處理されなければならぬ。さうしてその生産及び社會的利便も亦何等の人爲的拘束を受けずに、ただ各個人の必要に應じて分配されなければならぬ。彼はかういふ新組織、新制度の決して突飛なる「新發明」でなく、相互扶助の精神を有する人類の生活の當然到達せねばならぬ結論であること、及びそれが決して「實行し得ざる空想」でないことを證明するために、今日の社會に於いてさへさういふ新社會の萌芽が段々發達しつつあることを擧げてゐる。權力を有する中央機關なくして而もよく統一され、完成されつつある鐵道、郵便、電信、學術的結社等の萬國的聯合は自由合意の例で、墺地利に於ける鐵道賃銀の特異なる制度、道路、橋梁、公園等の自由使用、圖書館などに於ける均一見料制等は必要による公平分配の例である。これらの事に關する彼の著書にして更に數年遲れて出版されたならば、彼はこれらの例の中に、更に萬國平和會議、仲裁裁判、或る都市に實行されて來た電車賃銀の均一等の例を加へ得たに違ひない。『今日中央鐵道政府といふやうなものがなくして、猶且つ誰でも一枚の切符で、安全に、正確に、新橋から倫敦まで旅行し得る事實を見てゐながら、人々は何故何時までもその「政府といふ權力執行機關がなくては社會を統一し、整理することが出來ぬ」といふ偏見を捨てぬのであらうか。又、本の册數や、種類や、それを讀む時間によつてでなく、各人の必要の平等であることを基礎として定められた今日の圖書館の均一見料制を是認し、且つ便利として一言の不平も洩らさぬ人々が、如何してそれとは全く反對な、例へば甲、乙の二人があつて、その胃嚢を充たすに、甲は四箇の麺麭を要し、乙は二箇にて足るといふやうな場合に、その胃を充たさんとする必要に何の差等なきに拘らず、甲は乙の二倍の代償を拂はねばならぬといふ事實を同時に是認するであらうか。更に又同じ理に於いて、電車の均一賃銀制を便利とする人々が、その電車を運轉するに要する人員の勤務の、その生活を維持するの必要のためである點に於いて、相等しきこと、猶彼等が僅か三町の間乘る場合も、終點から終點まで三里の間乘りつづける場合も、その「乘らねばならぬ」といふ必要に差等なきに同じきに拘らず、如何してそれらの勤務者の所得に人為的の差等を附して置くのであらうか。』クロポトキンの論理はかういつた調子である。
編輯者の現在無政府主義に關して有する知識は頗る貧弱である。