6話 一揆暴動と革命
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單に主權者を更迭することを革命と名づくる東洋流の思想から推して、強大なる武力、兵力さへあれば何時でも革命を起し、若しくは成し得るやうに考へ、革命家の一揆暴動なれば總て暴力革命と名づくべきものなりと極めて了つて、今回の「暴力革命」てふ語が出來たのではないかと察せられます。併し私共の用うる革命てふ語の意義は前申上ぐる通りで、又一揆暴動は文字の如く一揆暴動で、此點は區別しなければなりません。私が大石、松尾などに話した意見(是が計畫といふものになるか、陰謀といふものになるかは、法律家的ならぬ私には分りませんが)には、曾て暴力革命てふ語を用ゐたことはないので、是は全く檢事局或は豫審廷で發明せられたのです。
大石は豫審廷で、「幸徳から巴里コンミユンの話を聞いた」と申立てたといふことを、豫審判事から承はりました。成程私は巴里コンミユンの例を引いたやうです。磯部先生の如き佛蘭西學者は元より詳細御承知の如く、巴里コンミユンの亂は、一千八百七十一年の普佛戰爭媾和の屈辱や、生活の困難やで人心恟々の時、勞働者が一揆を起して巴里を占領し、一時市政を自由にしたことであります。此時も政府内閣はヴエルサイユに在つて、別に顛覆された譯でもなく、唯だ巴里市にコンミユン制を一時建てただけなんです。から、一千七百九十五年の大革命や、一千八百四十八年の革命などと同樣の革命といふべきではなく、普通にインサレクシヨン即ち暴動とか、一揆とか言はれてゐます。公判で大石はまた佛蘭西革命の話など申立てたやうですが、夫れは此巴里コンミユンのことだらうと思ひます。彼はコンミユンの亂を他の革命の時にあつた一波瀾のやうに思ひ違へてゐるのか、或は單に巴里コンミユンといふべきを言ひ違へたのであらうと思はれます。
コンミユンの亂ではコンナことをやつたが、夫れ程のことは出來ないでも、一時でも貧民に煖かく着せ、飽くまで食はせたいといふのが話の要點でした。是れとても無論直ちに是を實行しようといふのではなく、今日の經濟上の恐慌、不景氣が若し三五年も續いて、餓孚途に横はるやうな慘状を呈するやうになれば、此暴動をなしても彼等を救ふの必要を生ずるといふことを豫想したのです。是は最後の調書のみでなく、初めからの調書を見て下されば、此意味は十分現れてゐると思ひます。
例へば、天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪の物を收用するのは、政治的迫害に對して暗殺者を出すが如く、殆ど彼等の正當防衞で、必至の勢ひです。此時にはこれが將來の革命に利益あるや否やなどの利害を深く計較してゐることは出來ないのです。私は何の必要もなきに平地に波瀾を起し、暴動を敢てすることは、財産を破壞し、人命を損し、多く無益の犧牲を出すのみで、革命に利する處はないと思ひます。が、政府の迫害や富豪の暴横其極に達し、人民溝壑に轉ずる時、之を救ふのは將來の革命に利ありと考へます。左ればかかることは利益を考へてゐて出來ることではありません。其時の事情と感情とに驅られて我れ知らず奮起するのです。
大鹽中齋の暴動なども左樣です。飢饉に乘じて富豪が買占を爲る、米價は益々騰貴する。是れ富豪が間接に多數の殺人を行つてゐるものです。坐視するに忍びないことです。此亂の爲めに徳川氏の威嚴は餘程傷けられ、革命の氣運が速められたことは史家の論ずる所なれど、大鹽はそこまで考へてゐたか否か分りません。又「彼が革命を起せり」といふことは出來ないのです。
然るに、連日の御調に依つて察するに、多數被告は皆「幸徳の暴力革命に與せり」といふことで公判に移されたやうです。私も豫審廷に於て幾回となく暴力革命云々の語で訊問され、革命と暴動との區別を申立てて文字の訂正を乞ふのに非常に骨が折れました。「名目はいづれでも良いではないか」と言はれましたが、多數の被告は今や此名目の爲めに苦しんで居ると思はれます。私の眼に映じた處では、檢事、豫審判事は先づ私の話に「暴力革命」てふ名目を附し、「決死の士」といふ六ヶしい熟語を案出し、「無政府主義の革命は皇室をなくすることである。幸徳の計畫は暴力で革命を行ふのである。故に之に與せるものは大逆罪を行はんとしたものに違ひない」といふ三段論法で責めつけられたものと思はれます。そして平生直接行動、革命運動などいふことを話したことが、彼等に累してゐるといふに至つては、實に氣の毒に考へられます。