小夜の中山夜啼石

1話 小夜の中山夜啼石

5,839字 約12分 2020年10月15日 公開

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 秋の末である。遠江国(とおとうみのくに)日坂(にっさか)宿(しゅく)に近い小夜(さよ)中山街道(なかやまかいどう)茶店(ちゃみせ)へ、ひとりの女が(あめ)を買ひに来た。

 茶店といつても(かた)ばかりのもので、大きい(えのき)(した)差掛(さしか)け同様の店をこしらへて、往来(ゆきき)の旅人を休ませてゐた。店には秋らしい柿や栗がならべてあつた。そのほかにはこの土地の名物といふ飴を売つてゐた。秋も()けて、この頃の日脚(ひあし)はだん/\に詰まつて来たので、亭主はもうそろ/\と店を仕舞(しま)はうかと思つたが、また躊躇した。

『あのおかみさんがまだ来ない。』

 きのふまで五日のあひだ、毎日おなじ時刻に飴を買ひにくる女がある。それが今日はまだ来ないことを思ひ出して、亭主はすこし躊躇したのであつた。その女はいつも暮れかゝつた頃に来て、たつた一文(いちもん)の飴を買つてゆくのである。勿論、今日(こんにち)とは違つて、その昔は一文の飴を買ふのもめづらしくないが、所詮(しょせん)一文は一文であるから、それを売ると売らないとが一日の収入の上、()ほどの影響のないのは、亭主にもよく判つてゐたが、彼はその女の来ないうちに店を仕舞ふ気になれなかつた。

 むかしの人は正直である、商売冥利(みょうり)といふこともよく知つてゐた。したがつて、たとひそれが(わず)かに一文のお客様であらうとも、毎日(かか)さずに来てくれる以上、その人の顔をみないうちに店を仕舞ふのは義理がわるいやうに思はれたからである。もう一つには、その女の人柄や風俗がどうも土地の人ではないらしい。五日もつゞけて買ひに来て、もう顔馴染(かおなじみ)にもなつてゐながら、決してその居所をあかさない。こちらから訊いてもいつも曖昧(あいまい)(ことば)(にご)して立去つてしまふ。それがどうも亭主の()に落ちなかつた。かれが店を仕舞ふのを躊躇したのは、所謂(いわゆる)商売冥利のほかに、その女に対する一種の好奇心といふやうなものも幾分かまじつてゐたのであつた。

 街道にはもう往来(おうらい)も絶えた。(おもて)もうす暗くなつた。亭主もいよ/\思ひ切つて店を仕舞はうとするところへ、いつもの女の影が店のまへにあらはれた。

『毎度御面倒でござりますが、飴を一文おねがひ申します。』と女は叮嚀(ていねい)に云つた。

 毎日来るので、亭主もこの女の年頃や顔容(かおかたち)をよく知つてゐた。彼女(かれ)廿二三(にじゅうにさん)ぐらゐの痩形(やせがた)の女で、眉を剃つてゐる細い顔は上品にみえた。どう考へても、こゝらの百姓や町人の女房ではない。相当の身分のある武家の妻かとも思はれる人柄である。しかも至つて無口で、用のほかには何にも云はないので、亭主にも彼女の身分がはつきりとは判らなかつた。

『いらつしやいませ。』と、亭主は女にむかつて叮嚀に会釈(えしゃく)した。

『もうおいでになる頃とお待ち申してをりました。今日は少し遅いやうでござりましたな。』

『はい。出先に子供がむづかりまして……。』と、女は声をすこし曇らせた。

左様(さよう)でござりましたか。では、この飴はお子供衆におあげなさるのでござりますか。』と、その()について亭主は()いた。

『はい。』

 亭主の手から飴をうけ取つて、女はいつもの通りに一文の(ぜに)を置いた。

『ありがたうございます。』と、亭主は銭をいたゞきながら云つた。『お宿(やど)は御遠方でございますか。』

 これは、一昨日(おととい)昨日(きのう)も訊いたのであるが、今日も亭主はくり返して訊くと、無口の女は低い声で答へた。

『いえ、遠くではござりません。』

『それなら(よろ)しうござりますが、この頃はこゝらに悪者がうろついて居りまして、往来の旅人に難儀をかけるとか申します。昼は()もかくも、日が暮れては御用心なされませ。わたくしももう店をしまつて戻るのでござります。御差支(おさしつか)へなければ途中までお(とも)いたしませう。お宿(やど)はどちらでござります。』

『いえ、近いのでござります。』

 云ひかけて、女はすこし考へてゐるらしかつた。いつもはすぐに出て行つてしまふのであるが、今日はまだ何か云ひたさうに躊躇してゐるので、亭主の好奇心はいよ/\募つて来た。

『まつたく不用心でござります。(こと)に今日はいつもより少し遅うござりますから、少々ぐらゐは廻り路でもお宿の御近所までお送り申しませう。』

『わたしは山の方へまゐるのでござります。』と、女は云つた。

『山の方へ……』と、亭主は眉をよせた。まさかに山越しをして、こゝまで一文の飴をかひに来るわけではあるまい。さりとて山の中に人家(じんか)はない筈である。亭主は不図(ふと)思ひあたつた。この女は久圓寺(くえんじ)に住んでゐるに相違ない。山の(とうげ)には観音(かんのん)(まつ)つた寺がある。女はなにかの仔細があつて其寺に隠れてゐるか。あるひは寺の僧に関係があつて、内所(ないしょ)(かく)まはれてゐるか。おそらく二つに一つであらうと亭主は想像した。しかし寺僧(じそう)は老人で、女犯(にょぼん)の関係などありさうにも思はれない。女はなにかの事情で赤子をかゝへて、そこに忍んでゐるのであらうと思つた。

『では、久圓寺にゐらつしやりますか。』と、亭主は訊いた。

 女はそれに対して確かな返事をしなかつたが、さりとてすぐに立去らうともしなかつた。そのうちに亭主は店を片附けはじめたが、女は矢はり店先を離れなかつた。送つてくれとは云はないが、なんだか送つて(もら)ひたさうな素振りにもみえたので、亭主は又訊いた。

『峠までお戻りなされますか。』

『いゝえ。』と、女は答へた。『すぐ其処(そこ)の、山の入口でござります。』

 亭主は再び眉を(しわ)めた。山の入口に人家(じんか)のある筈はない。この女は狐か狸の変化(へんげ)ではないかと(あやぶ)まれたが、女はいつまでも立去りさうにもしないので、亭主はなんだか薄気味悪くもなつて来て、今更とんだことを云つたと後悔した。

『送つて進ぜませうか。』と、亭主は思ひ切つて念を押してみた。

『はい。』と、女は低い声で云つた。

 もう()うなつては()うすることも出来ない。亭主は度胸を据ゑて、女と一緒にあるき出した。その途中で、女はなんにも口を()かなかつた。亭主も黙つてあるいた。日はすつかり暮れ切つて、山風が身にしみて来た。雨を催しさうな暗い空に、弱々しい星の光が二つ三つ洩れてゐた。

 山までは()のみ遠くもないので、真黒な森がすぐ眼のまへを(さえぎ)つた。亭主は物に引かれてゆくような心持でだん/\に山路(やまみち)をのぼつて行つた。と思ふと、自分とならんでゐた女の影がいつか闇に隠れてしまつた。亭主は急に(えり)もとが寒くなつた。彼はあわてゝ元来た方角へ引返そうとすると、どこかで赤児(あかご)()く声がきこえたので亭主は又ぎよつとした。

 赤児の声はつゞけてきこえた。その声をしるべに其処(そこ)らを見まはすと、その声は土の下から聞えてくるらしかつた。亭主は一目散(いちもくさん)に暗い路を駈け出して、山の下まで逃げ降りた。彼はほつと一息つくと共に、色々の今夜の不思議が彼の魂を脅かした。かれは里の人々の(かど)をたゝいて、(あや)しい女と怪しい赤児の啼声について報告した。

 いつの()にも()を好むのは人情である。里の人々はすぐに松明(たいまつ)を照して出た。亭主が案内に立つてゆくと、女の影が消えたらしいところに大きい松の木があつた。赤児の啼く声はまだきこえた。それは確かに土の下から響いてくるのであつた。

 人々は声をたづねて探りあるくと、松の大樹から少し(はな)れたところに大きい石が(よこた)はつてゐて、赤児の声はその石の下から洩れてくるのであつた。石はすぐに取除(とりの)けられた。土の下から発見されたのは若い女房の死骸であつた。女はむごたらしく斬殺(きりころ)されてゐたが、その死骸のそばには生れたばかりの男の()が泣いてゐた。その赤児の口には飴を(ふく)ませてあつた。

 女は武家の女房らしい風俗であつたが、どこの何者であるかを知るような手がかりは無かつた。かれは盗賊に殺されたのか道連(みちづれ)に殺されたのか、それらの事情も判然しなかつたが、彼女(かれ)のふところには路銀(ろぎん)らしいものを(たくわ)へていゐなかつたので、(おそら)くはこゝらを徘徊する山賊の仕業(しわざ)であらうといふことになつてしまつた。ひとり旅の女が盗賊に殺されるといふやうな出来事はこの時代に()のみ珍しくもなかつたが、それを発見した人々の注意をひいたのは、その女が妊娠中に殺害されて、その腹から赤児をうみ(おと)したといふことであつた。勿論、臨月(りんげつ)であつたのでもあらうが、(すで)に土の下にうづめられた死骸が赤児を生んで、その赤児が幾日も無事に生きてゐたのは、一種の不思議として人々をおどろかしたのである。

 赤児はどうして生きてゐたか。かれは毎日一文づつの飴をしやぶつてゐたらしい。その飴をかひに行つた女は母の亡霊である。路銀(ろぎん)をこと/″\く奪はれたらしい不幸な母は、どうして飴をかふ(ぜに)をこしらへたか。人々の鑑定によれば、女を殺した者がその死骸をうづめる時に(ぜに)六文を添へて置いたのであらう。死人に六文銭(ろくもんせん)を添へて(ほうむ)るのが古来(こらい)(ならい)である。その六文銭のある間、母はわが子を養育するために毎日一文づつの飴を買つてゐたのであるが、けふは六日目でその銭も尽きた。赤児はもう飢ゑて死なゝければならない。母の魂は飴屋の亭主を誘ひ出して、わが子がこゝに(うず)められてゐることを教へたのであらう。人々はうたがふまでもなく、さう信じた。

 母の死骸はあつく葬られた。赤児は(なさけ)ぶかい里人(さとびと)に養はれて生長の(のち)に久圓寺の僧となつた。久圓寺はこの峠にある古い寺である。

 この物語の(すえ)に、わたしの知つてゐることをもう少し書いてみたい。

 むかしの東海道の日坂(にっさか)宿(しゅく)は、今日では鉄道の停車場(ていしゃじょう)になつてゐない。今日の(くだ)り列車は金谷(かなや)(ほり)(うち)掛川(かけがわ)の各停車場を過ぎて、浜松へ向つてゆく。日坂は金谷と掛川との(あいだ)宿(しゅく)で、承久(しょうきゅう)宗行卿(むねゆききょう)や、元弘(げんこう)俊基卿(としもときょう)で名高い菊川(きくがわ)(さと)や、色々の人たちの紀行や和歌で名高い小夜(さよ)中山(なかやま)などは、みなこの日坂附近にある。鉄道の案内記によると、今日では金谷からゆくのを便利とするらしい。案内記には、小夜の中山夜啼石(よなきいし)西(にし)三十二(ちょう)、菊川、西(にし)廿二町とある。どちらも私が実地に踏査(とうさ)したのではないが、案内記を信用して()う書いておく。

 菊川の宗行卿や俊基卿はあまり有名であるから、あらためて云ふには及ぶまい。わたしがこれから()かうとする小夜の中山は、前にもいふ通り、古来の紀行や和歌で有名で就中(なかんずく)かの西行法師(さいぎょうほうし)の『(とし)()て又越ゆべしと思ひきや、(いのち)なりけり小夜の中山』の歌が最もよく知られてゐる。しかし江戸時代になつてから(さら)にそれが有名になつたのは、夜啼石の伝説によるのである。

 東海道名所図絵(めいしょずえ)()つてみると、夜啼石は小夜の中山街道のまん中にあつて、それから(ひがし)一町ばかりの左側に夜啼松(よなきまつ)がある。そのほとりに妊婦塚(はらみおんなづか)といふのがある。山路にさしかゝると、頂上には小夜峠(さよとうげ)があつて、そこには子育観音(こそだてかんのん)が安置されてゐる。その寺は久圓寺といつて、真言宗(しんごんしゅう)である。本尊の観世音(かんぜおん)行基僧正(ぎょうきそうじょう)の作で、身長(みのたけ)一尺八寸であるといふ。境内(けいだい)石碑(せきひ)があつて、慶長(けいちょう)五年(せき)(はら)(えき)の時に、山内一豊(やまのうちかずとよ)がこゝに茶亭(ちゃてい)を築いて、東海道を()(のぼ)つて来た徳川家康を(もてな)した古跡(こせき)であるといふことが彫刻されてゐる。これが東海道名所図絵の記事の大要(たいよう)である。

 これによつて考へると、小夜の中山に久圓寺といふ寺が()てられて、そこに観世音(かんぜおん)(まつ)つたのは()夜啼石(よなきいし)以前のことで、夜啼石の伝説から子育観音(こそだてかんのん)の名が流布(るふ)するやうになつたのではあるまいかと思はれる。どうしても()うなくてはならない。しかしその伝説は明かでない。勿論その年代も判然してゐない。したがつて、色々の説が流布されて、昔から芝居や浄瑠璃にも仕組まれてゐるが、どこまで事実であるか判らない。

 又しても名所図絵を引合ひに出すやうであるが、それによると、夜啼石の由来といふものを一枚(ずり)にして小夜新田(しんでん)の茶店で売つてゐる。しかし名所図絵の作者もこと/″\くそれを信用するわけにも行かなかつたと見えて、かう書いてゐる。『むかし日坂に妊娠の女ありて、金谷の宿の夫に通ふ。ある夜、この小夜の中山にて山賊()でて恋慕し、したがはざるによりて斬殺(きりころ)し、衣裳をはぎ取り行方(ゆくえ)無し。この(おんな)の日頃ねんじ(たてま)つる観音出でて僧と(げん)じ、亡婦(ぼうふ)の腹より赤子を(いだ)し、あたりの(しず)()にあづけ、飴をもつて養育させたまひけり。その子成人の(のち)、命なりけり小夜の中山と(つね)に口ずさみ、諸国をめぐつて(つい)に池田の宿にてかの盗賊のかたきに()であひ、親の(かたき)をやす/\と討ちしとぞ。その(しょう)(つまび)らかならず』云々(しかじか)

 東海道名所記にも夜啼(よなき)の松のことを書いてゐるが、これも名所図絵に(しる)された由来記(ゆらいき)と大同小異である。盗人(ぬすびと)に殺された女は臨月であつたので、その山に住む法師があはれに思つて、母の(はら)()いて男の()をとり(いだ)して養育した。その児は十五になつた時、初めて母の死を聞いて、(にわか)出家(しゅっけ)をやめて里へ出で、池田の宿にある(いえ)に雇はれながら、ひそかに(かたき)をさがしてゐた。かれは常に『命なりけり小夜の中山』を口ずさんでゐた。その(のち)、母の死際(しにぎわ)に着てゐた小袖が証拠になつて、不思議にも隣の(いえ)主人(あるじ)がその盗人(ぬすびと)であることが判つたので、かれは自分の主人(しゅじん)助太刀(すけだち)をかりて、母のかたきを討つた。それから彼は再び山へ戻つて出家(しゅっけ)になつた。その寺には彼の無間(むげん)の鐘がある。

 これが名所記の大要(たいよう)であるが、名所記には夜啼の松のみを説いて夜啼石を語つてゐない。そうして、『小夜の中山より十町ばかりをすぎて、夜啼の松あり。この松を(とも)して見たれば、子どもの夜啼を()むるとて、往来の人けづり取り、きり取りけるほどに、その松(つい)に枯れて、今は根ばかりになりにけり。この道夜ふけに()づべからず、折々(おりおり)怪しきことありといふ。』と書いてゐる。

 子育観音の縁起としては、東海道名所図絵に載せられた記事のやうでなければならない。観音が僧に()してその赤子を救ひ出したといふのは、いかにも昔の伝説らしい。僧は普通の人間で、おそらく久圓寺に住んでゐたのであらうが、それを観音の化身(けしん)であるかのやうに云ひ伝へられたものと見える。その点では、名所記の方が真実に近いやうである。

 これらの伝説を綜合して考へると、臨月の旅の女がぬす(びと)に殺されて、松の下に倒れてゐた。そこには大きい石があつた。女は死ぬと同時に出産した。その赤子の啼声を(あたか)も通りかゝつた久圓寺の僧が聞きつけて拾ひあげた。しかし女の乳のない寺中(じちゅう)で赤子を育てるのは難儀なので、乳の代りに飴をあたへてゐた。夜啼石や、夜啼の松や、夜啼飴の伝説はおそらくそれから生み出されたのであらう。その子が成人して母のかたきを討つたのは()うであらうか。(あるい)は他の出来事と一緒にむすび付けられたのではあるまいか。

 わたしはこゝで夜啼石の考証を試みようとしたのではない。したがつて、以上の諸説もどれがほんたうであるか勿論判らない。(ただ)、数ある伝説のうちで、最もわたしの興味をひいたのを先づ第一に比較的くはしく物語つたに過ぎない。

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