3話 霊魂不滅論 第三回 霊魂は雲煙のごとく消散すること
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また俗物連中は、人間の一生は煙の現じ雲の浮かぶがごとく、その死するは煙の滅し雲の散ずるがごとく、死後の霊魂は肉体とともに朽ち去りて滅亡するに相違ないと申します。これ別段理由も道理もなく、ただ一場の比喩に過ぎませぬ。その上にこの論は、かえって霊魂不滅を証拠立つることになります。なんとなれば、雲煙はひとたび散じてその形を失うも、決して真に散じたるにあらざれば、他日さらにその形を現ずることがあります。ゆえに、もし霊魂をこれに比するを得ば、死後再びこの世界に、その作用を現ずることありと断言してよろしい。かつ俗物連中も、世界の事々物々は一として真に滅するものでないことは、万々承知しておらるるに相違ありませぬ。その証拠は、己の財布に十円札を入れておきたるに、翌朝その中に見えざる場合には、なんと申しますか。必ず人に盗まれたるに相違ない、なぜなれば、いったんありしものが、なくなる道理はないからと申しましょう。これ、ひとり財布の中の金ばかりでなく、一切の事物に通じている規則であります。もし、これを学術上の言葉にて申せば、有を転じて無となすべからず、無を化して有となすべからずということになります。この規則は、あらゆる学術のもとづくところの大道理なれば、いかに俗物の人たちが集まりてかれこれ申したとて、この道理を動かすことはできませぬ。たとい鴨川は北に向かって流れ、太陽は西より出ずることがあろうとも、この道理だけは決して変わる気遣いはない。そうして見れば、霊魂は不滅なるに相違ありませぬ。なぜなれば、霊魂とは人の精神のことにして、精神は生時に実在していることは、だれも疑うものはありますまい。そのひとたび実在したるものが、死とともに滅するならば、これ有が変じて無となる道理なれば、宇宙の大規則にもとるではありませぬか。実に不都合千万の断言と申さねばなりませぬ。俗物連中が、財布の方にはこの規則を当てはめながら、霊魂の方にはこれを当てはめぬのは、俗物の俗物たるゆえんかは知らざれども、あまり目のない判断のように考えます。ゆえに、拙者は宇宙の大規則に従い、人の死するや、霊魂はひとたび散じて雲のごとく煙のごとく消滅し去ろうとも、その消滅すと申すは、人目に触れぬを意味するまでにて、決して真に消滅する道理なしと確信するものであります。もっとも、哲学上にては唯物派と名づくる一派がありて、人の生時ですらも、物質の作用を離れて精神なしと論ずるものがありますが、この論は、生時においてすでに精神の実在を許さぬものなれば、死後に霊魂の実在を許さぬは、無を化して有となすべからざる規則にもとづくものと考えてよろしい。ゆえに、これは俗物輩の論とは同日の比ではありませぬ。今、左にその両者の別を列すれば、
俗物輩は、人の生時に精神ありて、死後に霊魂なしという。これ、有を転じて無となすべからざる道理に反す。唯物派は、人の生時に精神なく、死後に霊魂なしという。これ、有を転じて無となすべからざる道理に反せず。
右ようの相違があるから、唯物論の方は一理ありと許すも、俗物論の方は気の毒ながら、決して許すことはできませぬ。しかし、唯物論も不合理の俗論なることは、後に至りて説明するつもりであります。
これと同じ道理にて、俗物連中がつねに、霊魂は肉体とともに滅亡すと申すけれども、肉体は死後、朽ちて土となろうとも、焼けて灰となろうとも、決して滅することはありませぬ。これも、有を転じて無となすべからざる大原則にもとづくものにして、ただ年をへ、時を経る間に、その状態を変ずるまでであります。もし、霊魂は肉体とその存否をともにするものならば、肉体の不滅なること明らかなる以上は、霊魂また不滅と申さねばなりませぬ。その論理は左のとおりであります。
霊魂は肉体とともに生ず。
しかるに、肉体は死後永く不滅なり。
ゆえに、霊魂もまた死後永く不滅ならざるべからず。
要するに、俗物の霊魂滅亡論は、かえって不滅論を証明することになりますから、俗物の人たちに向かって、御苦労千万の一言を呈さねばなりますまい。