通俗講義 霊魂不滅論

4話 霊魂不滅論 第四回 人の死は灯火の滅するがごときこと

1,621字 約3分 2017年6月6日 公開

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 俗物連中の霊魂説も、だんだん進みて多少理屈めきたる論を立つるものがありますが、その一つは、人の死するときに精神すなわち霊魂の滅するは、あたかも灯火の滅すると同様であると申します。この論によれば、人の生時にありて身体中に精神の存するは、あたかも灯心に油を注げば、灯火の光を発するがごとく、人の死時に精神の滅するは、あたかも油尽きて灯火の滅するがごとく、精神はこれを灯火に比し、肉体はこれを灯心に比する説であります。この説は前に述べたるものよりは、一歩も二歩も進みたる論にして、さきのいわゆる有を転じて無となすべからざる原則に背きておりませぬから、俗物輩の立論としては、あっぱれの上出来と申してよろしい。しかしながら、その論は唯物論を根拠とし、精神を物理作用と同一視したる論なれば、不合理の立論たることはいうまでもありませぬ。第一に、人体の精神におけるは、灯心の灯光におけるがごとしというは、一種の比喩(ひゆ)に過ぎざれば、さらに一方の理を推して他を測ることができるゆえんを証明せねばなりませぬ。もし、その証明のなき限りにおいては、彗星の見ゆるは国乱の兆しなりと判断する百姓論法と、同一種のものであります。たといその証明は効力あるものと許すも、灯心と油とを合すれば火を発する力あることは、灯光の明滅にかかわらず、その理は依然として存するに相違なきがごとく、肉体の組織ひとたび破るるとともに、精神ひとたび滅するも、肉体の組織再び成るとともに、精神再び生ずべき理は、必ず存することと定めねばなりませぬ。もし、他の例に徴するに、木と木とを()み合わすれば、火を発すること実事なる以上は、その相合せざるときにも、火を発すべきゆえんの理を具することは、打ち消されぬ道理である。これと同じく、肉体の組織相合するときに精神作用を現ずる以上は、その組織破れて各部分の分解するに至るも、精神作用を生ずべき理は、依然として存するに相違ないと考えます。しかし、このことは唯物論に対する答弁なれば、後に学者相手に論ずるときまで見合わせる方がよろしい。

 俗物輩の霊魂論は、一般にひとり死後の存否のみを論じて、そのよってきたる本源を窮めざる風がありますが、これは俗物の俗物たるゆえんと申せば致し方なけれども、決して道理上の説明とはいわれませぬ。およそなにごとでも、その道理を窮めんと思わば、まずその本源を知り、さらにさかのぼりて本源の本源を明らかにせねばならぬわけであるから、霊魂の問題も死後のいかんよりは、人のはじめて生まるるときに、いずれより来たり、いかにして生じたるかを知ることが肝要であります。もし、われわれの霊魂は父母から伝わるとすれば、父母の霊魂はいずれより湧き出でたるや、父母の父母はいかん、そのまた父母はいかんなどとさかのぼりて、結局、人間の祖先はもちろん、天地万物の本源、実体いかんを究め尽くさねば、霊魂問題は分からぬことになります。ゆえに、その問題は宇宙の大問題でありて、鹿島の要石(かなめいし)と同じく、底の知れない問題である。いな、要石の底は知れても、この問題だけは知ることがむつかしい。かかる広大の問題たるにもかかわらず、俗物連中は一、二の比喩を挙げ、一言半句で説き去りて、大いに分かりたるようにきめこんでおるのは、(ことわざ)にいわゆる「盲人蛇におじず」と申すものでありましょう。もし、果たしてそのくらいにたやすいことでこの問題が分かるようなら、東西の学者が数千年の久しき、思いを労し心を苦しむるはずはない。必ずや、早い昔に分かってしまうはずであります。俗物連中も、定めて孔子の言葉を記憶しておりましょうが、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」といわれました。実にその言のごとく、死後のことを知る前に、生時のことが分からねばなりませぬ。しかるに、生時のことの分からない連中に、死後のことが分かる道理がありましょうか。これらの連中は、みな孔子様のおしかりを受けるに相違ない。

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