迷信解

12話 迷信解 第一二段 怪火、怪音および異物のこと

3,280字 約7分 2010年8月13日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 以上述べたるところは、大抵みな心理的妖怪の部類であるが、これより物理的妖怪につきて少しく話さねばならぬ。まず物理的妖怪中、人の最も多く奇怪とするものは怪火(かいか)である。怪火とは、竜灯、鬼火、狐火(きつねび)不知火(しらぬい)のごとき、火のあるまじき所に火光を見る類を申すのじゃ。これにも偽怪、誤怪に属すべきものが混じておる。余がかつて聞きたる一話を申さば、ある人、一夜深更に及んで火葬場の近傍を通行せしに、この場所に立ちたる地蔵堂の前に、怪しき火の燃え上がりおるを見て大いに驚き、世のいわゆる怨霊火(おんりょうび)ならんと考え、こわごわ近づき見れば、堂内に泊まりたる乞食(こじき)が寒さを防がんために、堂前にて火をたきたることを発見したということじゃ。すでにその原因が判明すれば怪火にあらざるも、もしその原因を究めずしてこれを人に告ぐるに至らば、真実の妖怪となりて後世に伝わるに相違ない。この一例のごときは誤怪というべきものである。もし、好奇者が人を驚かさんと思って、故意に火のあるまじき所に火を点じ、人をして狐狸(こり)天狗(てんぐ)の所作ならんと疑わしむるがごときは、偽怪というべきものじゃ。その例も諸方にて聞くことである。

 これらの偽怪、誤怪を除きて、なおほかに真実の怪火があることは疑いない。しかし、その怪火と同種のものにても、平素見慣れたるものはだれありて怪しむものはない。例えば蛍火(ほたるび)のごとき、人の怪しまざるのみならず、かえってこれを愛し、これを楽しむ。また、朽ちたる木より光を放つことありても、別段不思議に思うものはない。これに反して狐火、鬼火のごときは、ただにこれを怪しむのみならず、これを恐れて近づくものすらないほどである。まず、わが国にて古来最も名高き怪火は、熊本県下の天草の海上に現るる不知火である。その原因につきては、夜中蛍のごとき光を発する微細なる小虫が、無数に波上に集まりたるによると申すことじゃ。遠くこれを望むに、火の海上に燃ゆるに異ならぬが、その火の奇怪なるは、あるいは一火が分かれて両火となり、両火がさらに分かれて数点となり、あるいはまた合して一火となり、一方にありて滅するかと思えば他方にありて現れ、高きものは(かけ)るがごとく、低きものは走るがごとく、その出没する間は数里の長きに及ぶも、だれありてその所在を確かむることできず、これを確かめんと欲してその火のある所に行けば、たちまち消えてみえなくなり、そのなんたるを知るものがない。よって不知火と名づけ、一大不思議として伝えられておる。

 怪火のうちに不知火のごとき小虫より生ずるものあれど、鬼火、狐火、竜灯、天狗火などは、みな空中に浮遊せる燐火(りんか)であろうと思わる。すなわち燐の気が水素と合し、いわゆる燐化水素となり、空中の酸素に触れて光を発するのである。この燐の気は草木などにも含まれておるが、生物に最も多く加わりておる。例えば、人の死してのち骨肉の腐れたるときのごとき、この気がその体より離れ、水素に合して光を放つに至る。それゆえに埋葬地などにては、俗にいう幽霊火なるものを見るのである。また、沼のごとき、水のたまりて流れず、草木、魚虫等の腐敗しておる場所より鬼火の発するも、同じ道理である。かく、その気がものすごく見ゆる場所に出でて、かつその体いたって軽く、人これを追えばその動きを空気に伝え、火もこれと同時に動き、その状態いかにも奇怪に見ゆるゆえに、妖怪、不思議と思いたるは無理ならぬことじゃ。

 燐火のことにつき、『天変地異(てんぺんちい)』に出でたる一話を紹介しようと思う。「ある人、世ふけて沼を渡り、ものすごく思いおりしが、たちまち青き火の近く輝くを見たるに、ようやくわが方に寄りきたれば、あしき妖怪の所業なりとひとりささやきながら行くほどに、これを捕らえんと思い立ち、急に歩みを進めければ、追うものありてのがるるがごとく、急に逃げ去り、われとどまれば彼もまたとどまり、われ行けば彼もまた行きて、わが動静をうかがいおるもののごとく、その様子われを軽蔑するように見ゆれば、われ大いに怒り、力を極めて追いかけ行きしに、たちまち消えて跡を失えり。しばらくありて(あし)を隔てて再び現出しければ、このたびは息をのみ身を潜め、間近くよりて急にこれを襲わんと決し、おもむろに進み寄りしに、火依然として少しも動く様子なし。ますます沈黙して火のそばに歩み寄り、急に手をあげて打ち落とし見れば、一片の燐化水素にて、なにも怪しげなるものなし。畢竟(ひっきょう)、前に逃げ隠れしは、自己の動きより空気を動かし、火もこれがために動きしものなるに、後のたびは静かに近寄りしゆえ、空気を動かさず、火もこれがためにその居所を動かさず、これを物にたとうれば、地水の面に浮かぶものあるを、にわかに水に飛び入りてこれを捕らえんとすれば、そのもの必ず水に促されて先の方へゆき、われ帰ればまた水につれてわが方へ来たるべし。しかるを、静かに水を押し分けこれをつかまば、容易なると同様なり」との解釈が見えておるが、これにてその道理がよく分かろうと思う。その他の怪火につきてはいちいち説明することはできざれども、民間にて火柱が立つということがある。そのときには必ず火災があると申しておるが、『荘内可成談(しょうないなるべしだん)』に出ておる話によるに、「放火の賊が自ら放火せんと謀り、あらかじめ火柱が立つといえる虚言を伝えたることあり」とのこと。これは己の放火せることの、後に発覚せざるための予防策である。もし人為にあらざれば、燐火もしくは電火ならんかと思う。また、蓑火(みのび)あるいは蓑虫(みのむし)と称するものがあるが、江州および越後地方にて申しておる。すなわち、秋期に当たり、夜暗く雨の強く降るときに野外を歩するに、蓑の上に怪火の点ずるを見る。これを蓑火と名づけておる。その原因は燐の気に相違なかろうと思う。

 怪火に次ぎて人の奇怪に感ずるものは怪音である。怪音のうちにて最も評判の高きものは(たぬき)腹鼓(はらつづみ)であるが、そのことは前に述べておいた。また、老木が怒鳴(どめい)するということを聞いておるが、これは多く樹木の体内に空洞ありて、これに(ふくろう)のごとき鳥が巣を作り、その中にてうなり声を発するのを誤認したるものなれば、誤怪の一種に相違ない。また、古来伝うるところに釜鳴(かまな)りの怪の話があるも、これ釜中の空気の振動より生ずる由にて、物理上説明のできることあれば、仮怪の一種であろう。その他は誤怪にあらざれば偽怪であると心得てよろしい。

 つぎに異物とは、越後の七不思議をはじめとし、あるいは天より怪石を降らし、白砂あるいは黄豆を降らす等の類にして、昔時は一般に奇怪に思いしも、今日は学理の進歩によりて、一人のこれを怪しむものなきに至りたれば、いちいち説明するに及ばぬ。

 その他、世間にて奇怪に思うものはカマイタチと申すものである。そのものたるや形あるにあらず、人の身体に風の触るると覚ゆるのみにて、かみそりにて切りたるがごとききずを得、血の多く出ずるということじゃ。その原因は、空気の変動によりて空気中に真空を生ずることがある、このとき、もし人体の一部がその場所に触るるならば、その一局部に限り外部の気圧がなくなりたるゆえ、人体内部の気がその空所をみたさんとしてほとばしり出ずるときに、皮肉を破裂せるによると申すことじゃ。かく聞いてみれば、妖怪とするに足らざることが分かる。また俗に、人の溺死(できし)せる節、親戚のものきたるときは、死人の鼻孔より出血するという話は、いずこにても一般に唱うることなるが、その道理は医家の説によるに、親戚に限るにあらず、なにびとにても死体に触れ、これを動かすときは必ず出血するものである。しかるに、親戚のこれに触るるときに限るように申すは、かくのごとき場合にありては、他人のその死体に触るること極めて少なく、親戚の来たるを待ちてその体を動かすものなれば、衄血(じくけつ)と親戚との間になにかの感応あるように考えたるのじゃとのこと。されば、これまた不思議とは申されぬ。そのほかにもこれらに類すること多々あれども、際限なければ、これを『妖怪学講義』もしくは『妖怪学雑誌』に譲りておく。

目次に戻る

目次