13話 迷信解 第一三段 妖怪雑種のこと
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以上説明したるほかに、複雑せる妖怪にして、しかも民間に最も多く起こるところの怪事がある。すなわち、その一は投石の怪事である。その怪事は、夜中人家に石の落ちきたるありて、なにものの所為なるかその原因のさらに知れざることじゃ。民間にてはこれを狐狸または天狗の所為と申しておる。ゆえに、その石を天狗礫という名をつけてある。余もこのことにつき、たびたび現場へ立ち会いをなしたることがあるが、その原因のすでに発覚したるものにつきて考うるに、狐狸にもあらず天狗にもあらず、全く人の所業である。その人は家の外にあらずして、家の内にあることが多い。世間の考えにては、家の外より石を投げ込むように思うがゆえに、毎夜見張りをつけていても、その原因を知ることができぬ。さて、家の内にてなにものがかかる悪戯をなすかとたずぬるに、多く婦人、女子の所業である。下女か娘などにつきてよく吟味すれば、大抵その原因が分かる。また、中には家族中の白痴と呼ばれ、不具者と称せらるるものより起こることもある。しかしてその本心は、なにがためにするところあるにあらず、自ら利せんとする目的より出でたるものならば速やかに発覚するも、さにあらずして一は好奇心より出でて、一は精神の異状より起こる。精神の異状とは、人の見ず知らざる間にかかる怪事を行って人を驚かし、また、人のこれを見て奇怪に思い、不思議に感じて大いに騒ぎ立つるを、なによりおもしろくかつ愉快に思い、種々工夫してますます巧みにとり行うようになり、一層人をして奇怪に感ぜしむる次第である。普通の人よりこれを見れば、実に解し得られぬ所業なれども、これがすなわち精神に異状あるゆえんにして、一種の精神病と見てよろしい。
投石の怪は、通例、深夜に石または瓦が家の内に落ちきたるのであるが、その多くは台所の方に落つる。かかる場合は多く下女の所為にて、下女は台所の近くに寝ておるから、かねて昼間に石を拾い集めて隠し置き、夜ふけて人の寝込みたるをうかがい、戸のすきより台所の方へ投げだすのである。あるいは座敷の辺りに、しかも昼間に石の落ちきたることあるは、家族中の者の所業に出ずることが多い。よって、石の落ちたる場所によりて、およそその原因のある所を判断することができる。この怪事がだんだん増長するときは、ただ投石のみでなく器物がその位置を変じ、棚下にある物が棚の上に移り、また座敷の物が台所に転ずることがある。したがって、物の紛失することが起こる。中には箪笥、長持の中にある衣類が切断されておることがある。これは、最初投石したることを人みな奇怪に思い、狐狸、天狗の所為ならんと驚きしを見て、その本人はますます興に乗じていろいろの所業をなすのである。はなはだしきに至りては、家の中にて火気のあらざる所で火の燃え上がることがある。それがために出火したる例も聞いておるが、いずれも一家中のものにて精神に異状あるより起こるに相違ない。よって、かかる場合には、これを狐狸、天狗の所為に帰せずして、人為と思ってよく調ぶるようにすれば、ただちに原因を発覚することができる。古語に「妖は人によりて興る」とは、誠にその実を得たる格言である。
また民間に、妖怪宅地すなわち化け物屋敷と申すものがある。古来の伝説は信じ難ければこれをさしおき、今日現に存するものが諸方にある。余も一、二度たずねて見たることもあるが、その多くは家屋の構造が悪いように思わる。第一に、光線のとり方がよろしくない。ために、室中に昼なお薄暗きようなる場所がある。かかる室はなんとなく薄気味の悪いものなれば、気の弱い神経質のものがこれに住すれば、必ず疑心暗鬼を生ずるの道理にて、自ら種々の妖怪を呼び起こすに相違ない。第二に、化け物屋敷といわるる家には、必ず悪い歴史をもっておる。例えば、その家には先年自害したものがあるとか、首縊りしたるものがあるとかの言い伝えがある。かかる話が残りておるときは、後にここに住するものが、己の神経よりいろいろの妄想をえがき、幻像を浮かべ、亡霊を見る等のことが起こる。これより相伝えて妖怪屋敷の評判が高くなるのである。また、なにかその家あるいはその持ち主に遺恨、私怨あるために、ことさらに作為して化け物屋敷などと言い触らすことがある。これはいわゆる偽怪と申すものじゃ。よって妖怪宅地も、「人によりて興る」といわねばならぬ。古人の語に「人凶にして宅凶にあらず」とあるは、もっともの言である。
妖怪宅地の中に枕返しの怪談がある。現今にても往々聞くことじゃ。余が越中巡回の折に、その怪事のある室に寝たこともあれば、自ら経験しておると申してよろしい。これもやはり神経の作用に相違ない。枕返しとは、一夜のうちに覚えず知らず、己の枕の位置が転じておることを申すのじゃ。これは全く自らなしたるに相違なきも、夢中覚えずなすことなれば、翌朝記憶しておる道理はない。ただし、なにゆえに夢中かかる挙動をなすかというに、もしその人が多少、この室は枕返しの起こる所じゃということを記憶中に有すれば、その記憶が夢中に働きて、知らず識らずの間に自ら枕を返すに至るに相違ない。これを心理学にて無意識作用と申すが、あたかも夢中に寝言をいって自ら覚えざると同様である。
その他、俗に雪隠の化け物、舟幽霊、雪女等の怪談あれども、これらはみな幻視、妄覚より起こりたるものにして、諺に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の類なれば、説明するに及ばぬ。ただ、世に魔法、幻術として伝えてあるものに、奇怪に感ずることがいくぶんかある。あるいは火渡りのごとき、あるいは不動金縛りのごとき、ずいぶん不思議に見ゆれども、火渡りは物理の研究によるもできる道理にて、足の皮膚およびその面にある水気が、ある度までは熱力に耐え、かつ熱を防ぐことを得るゆえ、そのできるとできざるとは、つまり熱の程度に関する問題である。もし熱の程度が高きに過ぐるときは、跣足のままにて渡ることはできぬけれど、火渡りの場合には、その度のあまり高くないことは明らかである。ただし、くわしき説明は物理学および心理学の両面より考証せざるを得ざれば、『妖怪学講義』に譲りておく。つぎに不動金縛りは、現今にては催眠術にてたやすくできることなれば、不思議とは申し難い。催眠術は近来盛んに行わるることじゃが、その術たるや、人心をして睡眠と醒覚との中間における一種の状態に入らしめ、己の意思にて身体を支配することあたわずして、ほかの人の命令に応じて器械的に動くようになる。ゆえに、他人より「われは汝に不動金縛りを掛ける」と命令されれば、たちまち身体、手足が動かぬようになる。その理由は心理学の問題なれば略しておく。これと同じく、一時わが国に行われたるものに、コックリと申すものがある。すでにコックリといえば、なにびとも知らぬものはなかろう。細き竹を三本合わせ、その上に盆を載せ、四方より手をかくると、たちまちにその盆がおどりだすというおもしろき仕掛けである。これを民間にては、狐か天狗か亡霊が乗り移りて動くのであると考えておれども、その実、われわれの精神作用が手の筋肉の上に働き、知らず識らずの間に運動を盆の上に伝え、衆人の力相合し相加わりて、おどりだすほどになるのじゃ。俗にコックリはよく人の年齢をあてると申すが、その当て方は竹の足をあげて、二歳ならば両度、三歳ならば三度あげる。いかにも不思議のようなれども、その盆に手を掛けておる人が全く知らざるものの年齢を当てることはできぬ。そのよく当てるは、必ずその中の一人が知りたる人の年齢に限る。この一例によりても、人の心に思っておることが、手の上に働きて盆を動かすに相違ない道理が分かる。かくのごとく「妖は人によりて興る」というが、これをさらに言を換えて申さば、「妖は心によりて興る」といわねばならぬ。