迷信解

6話 迷信解 第六段 加持祈祷のこと

3,288字 約7分 2010年8月13日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 加持祈祷(かじきとう)は、多く病気、災難ある場合にこれを行うことになっておる。そのうちに単に一種の儀式として行うがごときは、格別の弊害もなければ差し支えなしとするも、民間にて病気、災難を免れたい一念より行うのにはずいぶん害が多い。もっとも、祈祷と称しても正当なるものと不正当なるものとがある。正当なるものは誠心誠意より出ずる信仰作用なれば、排斥するに及ばざるも、不正当なるものはいわゆる淫祀(いんし)に属するものなれば、大いに排斥せなければならぬ。淫祀とは一口にいわば、道理に反し道徳に害があるがごとき祭祀をなすものを申すのじゃ。わが国にはずいぶん淫祀が多いように思う。つぎに、加持につきても一言しておかねばならぬ。世間にては加持祈祷と唱えて、加持と祈祷とは同一のように思っておれども、加持は真言(しんごん)宗に限りて用うる語である。その意味はよほどむつかしいことじゃが、その宗にては三密(さんみつ)加持と称して、いわゆる宗意安心に当たるべき大切の心得である。まず、三密とは身密、語密、意密の三種のことにて、身密とは手に印契(いんげい)を結びて修行すること、語密とは口に真言陀羅尼(だらに)を唱うること、意密とは心に真言の法を念ずることじゃ。くわしき説明はここに述ぶる必要はない。加持とは加持渉入と熟して、仏の三密と人の三密と互いに相加わり相通ずる意味である。この三密加持の修行によりて、即身成仏ができると申しておる。よって、世間の祈祷(きとう)ということとは意味が違っておるけれども、古来、真言の僧侶がおもに祈祷を行い、ことに真言宗にては神仏混合の寺を守り、二者を混同せしゆえに、加持祈祷も混同するようになったに相違ない。とにかく、神仏を論ぜず正当の加持祈祷はかれこれと排斥するには及ばぬけれども、愚民の間には加持祈祷の濫用が多く、したがって弊害が多いから排斥せざるを得ざる次第である。ゆえに『修身書』には、怪しげなる加持祈祷をなすものを信ぜぬことと断りてある。そのいわゆる怪しげとは、余がいうところの不正当の意味であろうと思う。

 淫祀(いんし)祈祷の弊害につきて一、二の例を挙げんに、『修身書』に祈祷者の徳利の中に(どじょう)を入れたる話が出でておったが、これに類したる話が『怪談弁妄録(かいだんべんもうろく)』と申す書物の中に見えておる。「昔、京都の里村某なるものの家にて器物を失いたることありて、いろいろ手を尽くして捜索すれども見当たらず。しかるに、隣家に神巫(みこ)ありて占いをよくし、また祈り祭りをなして、病気そのほか諸事に効験あり。ことに紛失物などには、妙にその所有を知るとの評判高く、かつ人の勧めもあれば、その巫を己の家に招きて祈らしめたり。ときに巫は壇に神酒(みき)をもうけ、紙の幣束(へいそく)を立てて主人にいえらく、『一家のものをして、ことごとく壇の前を過ぎ行かしめよ。もしその中に盗みしものあらば、幣束おのずから動かん』といいつつ、呪文(じゅもん)をとなえて祈りをなせり。主人その言葉に従い、家内のものを残らずその前をとおらしめしに、一小僕(しょうぼく)の過ぐるに及んで幣束たちまちにふるい動けり。衆人大いに驚き、恐れて神妙なりといえり。小僕ただちに腕をまくり、大喝一声して巫の胸をついて地にたおさしめたり。そのときに、巫の足の親指より、長き糸をもって幣束の柄に結びつけたることを見出だせり。家人、たちどころに大いにののしりてこれを追いしに、巫も大いに驚きて逃げ去れり」との話がある。今一例を挙ぐれば、『閑際筆記(かんさいひっき)』に出ておる話に、「東都のある士族の家に、毎夜石の飛びきたるあり。月を越えてやまざれば、家人みな家の外に出でてひそかにこれをうかがいおりしに、人の突然門を過ぎ行くがごときを覚え、間もなく石の飛びきたるを見たり。数名のもの前後より急に立ちあがり、その人をとらえ灯を取りてみれば、その近辺に住める山伏にてありき。けだし山伏が、その家に怪あれば必ず己に命じて祈祷を行わしむるならんと思いて、かくなせることを知れり」と書いてある。これみな、余のいわゆる偽怪と申すものである。

 神仏に祈りて霊験ありとするも、誠心誠意をもって行うにあらざれば神仏の許すはずはない。もし、不道徳の心をもって己の私欲を満たさんとて祈願をしたりとも、神仏はこれを助くるどころでなく、いたく罰するが当然である。しかるに、世の欲張りものが神の助けをかりて己を利せんとする例がたくさんある。実に驚き入りたる次第である。その一例は『痴談(ちだん)』と題する書中に出ておる。「ある強欲者が神に祈りて大金を得んと欲し、一心をこめて祈請して曰く、『願わくは神様よ、われに一万円の大金を授け給えよ。この願い成就したる日には、九千九百九十九円を御礼として差し上げ申すべし」と、再三反復して祈りおれり。傍らにありてこれを聞くもの、一万円より九千九百九十九円を除き去らば、残るところわずかに一円なり。一円の利を得るに、なんぞ神を煩わすに足らんや。これ必ず失言もしくは違算ならんとてその者に注意したれば、当人曰く、『これ違算にあらず、失言にあらず。その御礼として九千九百九十九円を差し上ぐるといいたるは、全く神を欺くための方便にして、いよいよ一万円の大金を得たる日には、一文も差し上げぬつもりなり』と答えたり」との一話のごときは、人の欲極まりて神を欺くに至りたるものである。これに類したる話が、先年の『読売新聞』に見えたことがある。その話は、「東京築地南小田原町、荒物商某方へ同居せるものにて、新栄町の鍛冶屋(かじや)へ奉公中、主人のすきをうかがい、箪笥(たんす)の引き出しより十円紙幣一枚をぬすみ取り、なにくわぬ顔して、深川区成田山不動の開帳に参詣(さんけい)し、『不動様、大日(だいにち)様、どうぞ泥棒したことの知れませぬように』と一心に祈願をこめ、これでまず一安心と思って帰家したるところを、京橋警察署の手で捕縛されたり」とのことであるが、かくのごとく神仏を濫用する連中が、世の中に決してすくなくなかろうと思わる。世間に愚民は多きに相違なきも、明治の盛代には、早くこのようなる迷信の跡を絶つようにしたいものである。

 淫祀のことにつきては『草茅危言(そうぼうきげん)』に論じてあるから、ここにその一部分を抜粋するに、「江州山王の祭りは神事に妄説を設けて、神輿(みこし)は人の血を見ざれば渡らずとて、見物人に喧嘩を仕掛け、必ず人をきるを例とす。他所にもこの類の妄説をいい立て、悪事を行うこといろいろありと聞く。例えば、出雲大社の竜灯、備中吉備津(きびつ)の宮の釜鳴(かまな)り等、鬼神の威光に託して、巫覡(ふげき)等の愚民を欺き、銭を求むるの術とす。そのほか讃岐(さぬき)金比羅(こんぴら)、大和の大峰など種々の霊怪を唱え、また稲荷(いなり)、不動、地蔵を(まつ)り、吉凶を問い病を祈り、よって医者の方角をさし示し、あるいは医薬をとどめ死に至らしめ、蛭子(えびす)、大黒を祀りて強欲の根拠とし、天満宮を卑猥(ひわい)のなかだちとし、観音を産婆代わりとし、狐、狸、天狗の妄談、いささかの辻神、辻仏に種々の霊験をみだりにいいふらし、仏神の夢想に託し、妄薬粗剤を売りひろめ、男女の相性、人相、家相を見るの類、いずれも愚民を惑わし欺くの術にあらざるはなし。誠に嘆ずべく、あわれむべきのはなはだしきなり」と説いてあるが、これ維新前のことなれども、明治の今日なおこの弊風を存するは、一層慨嘆すべきことと思う。

 およそ神仏は道徳の本源、正理の本体なれば、平素、心に誠実の徳を守り、身に人生の務めを行わば、自然に神仏の保護を得、恩愛を得くべきはずである。これに反して、心に一善を思うなく、身に一行を修むるなくんば、なにほど祈ったり願ったりしても、神仏の罰こそあれ、決して助けを得べき道理はない。世の中にこれより見やすき理はなかるべきに、その理を解することのできぬとは、実にあきれはつるよりほかはない。昔の歌に「心だに誠の道にかなへなば祈らずとても神やまもらん」とある以上は、「心だに誠の道にかなはずば祈りたりとも神はまもらじ」と申さねばならぬ。また、「正直の(こうべ)に神やどる」とも、「さわらぬ神に(たたり)なし」ともいえる(ことわざ)があるが、いずれも神に対する心得を示したるものである。よくこの歌や諺の意味を味わいて、怪しげなる加持祈祷をせざるように心掛くることが肝要である。

目次に戻る

目次