7話 迷信解 第七段 マジナイ、神水および守り札のこと
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世にマジナイと称するものありて、その効験を信ずるものが多い。あるいは禁厭といい、あるいは呪法というも、同一の意味である。今、その由来をたずぬるに、わが国にありては神代の時より起こると申すことじゃ。「神代の巻」に、「大己貴命が少彦名命と力をあわせ、心を一にして鳥獣昆虫の災害をはらわんために、すなわちその禁厭の法を定めたり」とある。また、古代には禁厭の職を設けられたることもあると聞きておる。されど、これひとり日本に起これるにあらず、シナにもインドにも古代より伝わりておる。また西洋にもあることなれど、余は他国を略し、日本のマジナイのみを述べようと思う。
古代にありて人知いまだ開けず、医術のいまだ進まざりしときにありては、禁厭、マジナイの諸法を用うるは、あえて怪しむに足らざれども、今日のごとき教育の普及し、医術の進歩せるに当たりて、なおマジナイによりて病気を医し、災難を避けんとするは、実に解し得られぬことである。民間にて用うるマジナイ中には、抱腹にたえざること多ければ、試みにその二、三を挙ぐるに、頭痛のマジナイに擂鉢をかぶりて、その上に灸を点ずれば治すといい、また一法には、京橋の欄干北側の中央なるギボウシを荒縄をもってくくり、頭痛の願掛けをなさば、その験あること神のごとしといい、夜中盗難を防ぐには、手洗い鉢を家の中にふせて置けばよしといい、猫の逃げたるときに、暦を取りてその逃げ出だしたる日の所を墨にて消しおけば、やがてかえるものといい、船に酔わざるマジナイに、船の中に「賦」の字をかき、「武」の右肩の点を人の額にうちおかば、少しも酔わざること奇妙なりといい、狗の肝をとりて土にまぜて竃を塗るときは、いかなる不孝不順の女人にても至孝至順の人となるといい、五月五日に鼈の爪を衣類の衿の中に置けば、記憶の強くなるものなりというがごとき類のみである。多少道理を解するものは、いかに信ぜんとするも信ずることはできぬ。
マジナイの中には、一種の滑稽に属するものもたくさんある。例えば、俗に瘧のときに茄子を食するを忌むは、瘧のいゆるを落つるというによりて、茄子は熟しても落ちぬものなれば、言葉の縁をとりて茄子を嫌うに至りたりといい、また小児の頭にオデキのできたるときは、これを医するに「驫」の字をその上に書く。その意は、俗にオデキのことをクサと名づくるゆえ、馬をして草を食せしむるマジナイなりといい、また足に豆のできたるときも、やはり「驫」の字をその上に書く。これ、馬は豆を食する意なりと申しておる。今一例を挙ぐれば、明治二十四年の春ごろ、東京にインフルエンザ病大いに流行したることがあったが、俗にその名をオソメ風と申したことがある。そのときにこれを避くるマジナイなりとて、家の入口に「久松はおらず」と書いて張り出だしたものを見た。これは病気の異名より思いついたる新発明のマジナイである。御札、御守りにもこれに類する滑稽が多い。その一例は、播州明石町に人丸神社ありて、火よけと安産との守り札を出だすとのことじゃが、この二者もとより人丸その人になんらの関係なきは明らかであるも、ただ音便上、人丸は火止まる、および人生まるに通ずるによるということを聞いておる。従来民間に伝われるマジナイは、大抵このくらいのものである。その他は推して知ることができる。
また、世間にマジナイを信じて失敗したる話もたくさんある。ある人、犬の己に向かって吠えきたるときに、手の内に虎という字を書きて示さば、たちまち恐れて逃げ去ると聞きてこれを試みしに、何の詮もなく、ついにかみつかれたりといい、またある人、蜂のマジナイなりとて、経文の二句を心に念ずれば、蜂にささるることなしと聞き、これを試みしもその効なく、手のヒラを十分にさされたりというを聞いたこともあるが、これは当然のことである。これらの例によりて、マジナイの効験なきことは大略分かるであろう。『安斎随筆』に、享保年中の辻売りの秘伝に、「鰹に酔わざる法」と題し、その中に、「新しき魚をえらびて食うべし、また食わざるもよし」と書いてあったということじゃ。これならば百発百中に相違ない。これによりて考うるに、金をためる秘伝は勤、倹の二つにほかならず、長寿を得る呪法は摂生の一事に限る。余は、かくのごときマジナイを好むものである。
マジナイに関連して神水、守り札のことも申さねばならぬ。神水そのものにつきてはかれこれ論ずるに及ばざれども、一神水をもって万病に効験ありと言いふらし、またこれを信ずるに至りては、大いに害ありと思う。もと神水は神にたむけたる水である。その水いかに清潔なるも、水は依然として水なるべし。水を変じてただちに神となし薬となすことのできぬは、分かりきったことである。これを伝染病にあれ痼疾にあれ、何病にも用いて効能あるように思うは愚の至りではないか。御札、御守りもこれと同じく、神仏を信念するものが、信仰のあまり、神仏の名を書きたるものを家に奉置し、身に携帯するはもとより非議すべきにあらざるも、これを所持すれば種々の病患、災害を免れ得ると信ずるに至りては、迷信のはなはだしきものといわなければならぬ。また、守り札のうちには奇々怪々なるものがある。夜中通行の際我是鬼の三字を書したる札を携帯すれば、決して怪物に遭遇することなしというがごときは、まだ怪しむに足らぬ。もし、民家の入り口に張り付けたるものを見るときは、異類異形のものが折々掛けてある。ことに魔よけに用うるものには、平家蟹の殻へ目口をえがきたるものあり、草鞋の片足を釘づけにしたるもあり、塩鮭の頭を藁縄にて貫きてつるせるもあり、そのなんの意たるや解するに苦しむことが多い。これを一見するに、どうしても未開の民たるを免れぬように思わる。また、御札につきて自家撞着のこともすくなくない。例えば、火よけの御札を出しながらその堂が火災にかかり、盗難よけの御札を出す所へ盗難があるなどは撞着といわねばならぬ。ある人の話に、「某神社に盗難よけの御札を出す所ありて曰く、『だれにてもその身にこの札を所持し、もしくはその家に保存すれば、決して盗難にかかる恐れなし』といいながら、堂内にかけたる賽銭箱にかたく錠を下ろしてあるを見たり。これ、自語相違にあらずや」と申したことを記憶しておる。愚民瞞着もここに至りて極まれりといわねばならぬ。
マジナイや神水や守り札などが、全く病気、災難に効験ないではなく、ときによりてはいくぶんの効能あるように見ゆるは、別に道理のあることなれば、その理由も一言しておく必要があると思う。まず病気に効験あるゆえんを考うるに、マジナイ、神水そのものの力にあらずして、これを信ずる人の精神作用によるのである。その一例として、余が聞きたる話を紹介するに、「ある寺の住職にて、呪文を唱えて小児の虫歯を治するものあり。ある日その寺に大法会ありて、隣村の老婆も参詣せしに、住職の小児の歯痛を患うるものを呼びて、その頬に手をあて、一心に『アビラウンケンソワカ』といえる呪文を三べん繰り返して唱うれば、その小児たちまち歯痛を忘れ、その妙ほとんど神のごとくに見えたり。老婆そのそばにありて大いに感服し、家に帰らば自らその法を試みんと思いおりしが、たまたま隣家の小児の歯痛に悩めるを聞き、早速その子を呼びて呪文を唱えんとせんに、『アビラウンケンソワカ』を誤り伝えて、『アブラオケソワカ(油桶ソワカ)』と記憶せるにもかかわらず、三度くり返せしに、たちまち痛みを感ぜざるに至れり。このこと相伝えて一村中、老となく少となく歯痛を患うるものあれば、みな争いきたりて老婆の治療を求むるに、老婆はその都度必ず『油桶ソワカ』を唱えて、よくこれを医治したり」とのことじゃ。もし虫歯の癒ゆるは全く呪文の力ならば、油桶ソワカを唱えて治すべき道理はない。もし油桶にてよく治するならば、味噌桶ソワカにても、酒徳利ソワカにても、醤油樽ソワカにても差し支えなきはずである。果たしてしかりとせば、その癒ゆるは呪文そのものの力にあらずして、そのマジナイを受くる方にて、必ず癒ゆるに相違ないと信ずるによることは明らかである。されば、その療法は精神療法もしくは信仰療法と名づくる方が適当じゃ。ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷の御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。
これを要するに、人の病は肉体の方より起こすものと、精神の方より生ずるものとの二とおりありて、その癒ゆるにも両面あると考えてよろしい。例えば、肉体の方にて種々の療法を尽くし、十分全治の見込みあるに、精神の方にてあまり病気を懸念せるために、その効の見えざることがある。かかる場合に精神を慰安することができれば、速やかに回復するに相違ない。また、病気の軽きものに至りては、精神上より妨害することなくんば、自然に任せておいても平治することがある。もしその場合に、精神上の懸念が回復の妨害をなすために全治せざることあるにおいては、精神を慰安し、神経を鎮静する方法をとることが肝要である。すなわち、マジナイ、神水等の治病に効験あるは、みなこの理によるに相違ないゆえに、余はこれを名づけて信仰療法と申しておる。されど、この法によりて治し得るはある程度までのことにして、大体の治療はもとより医薬、医術をまたねばならぬ。ただ、医家の治療法の一参考となるに過ぎぬ。しかるに、諸病がいずれも御札、マジナイによりて治するものと思うは、迷信のはなはだしきものである。つぎに、守り札をもって種々の災難の予防とするのは、決してその効あるではなく、ただ安心、気やすめの助けとなるまでじゃ。そのことは格別説明するに及ばぬことと思う。