3話 3
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事件が他殺か自殺かさえ分らず、殆んど迷宮入りになりかけた頃だった。ある日、S夫人は神田の事務所に東伯爵の訪問を受けた。
「もうこうなっては警視庁ばかりを頼みにしてはいられなくなりました。どうか一つお骨折りを願いたい、どうしても犯人を探し出さなければ殺された者が可哀想です」
伯爵は頻りに他殺説を主張して、ある秘密をさえ夫人の前に語ったのだった。
それによると、二三ヶ月前から伯爵夫人の身辺に影のように附き纏っていた男があったのだそうだ。彼女が近頃健康を害していたのも、実はそれが原因で、彼女はその男を非常に怖れていたという。
「例のサーカスの女の亭主じゃないんですか?」
S夫人は伯爵夫人の依頼から咄嗟に想像して訊いてみた。伯爵はただ唇にちょっと寂しい笑いを浮べたきり、それには答えないで、費用はいくらでも出すから、是非犯人を捜し出してもらいたいと、繰り返し繰り返し頼むのだった。
伯爵が帰ると夫人は直ぐ外出の仕度をし、助手の私を連れて、念のためもう一度浅草のサーカスを調べに行くことになった。伯爵の口ぶりから察すると、どうやらその亭主が怪しいように思われる。S夫人も最初の考えを翻えして、あの女よりも亭主を探す積りなのではあるまいか。いずれにしても女か男か片一方を発見すれば、それによって事件の糸口がたぐり出せるかも知れない。
仲店の雑沓の中を、夫人は黙々として考えながら歩いた。私も無言で彼女に遅れまいと足早について行った。
二人はいきなり楽屋口へ行って、名刺を出し団長に面会を求めた。団長は直ぐ飛び出して来て、にこにこ笑いながら中腰を屈めた。これがあの仁王様のような恐しい、楽屋裏の暴君かと、思わず私は夫人の顔を見て苦笑した。
団長はしきりに小首を傾げて考えていたが、
「どうもこの中にはそういう女も男も居りませんな、シンガポールから来たって奴はいるにはいますが――」
と云って楽屋の隅へ眼をやった。そこにはいつぞや見た狒々の男が脱ぎ捨てた毛皮の横に蹲っていた。
「あの人ですか、シンガポールから来たっていうのは?」
夫人の言葉に狒々の男はハッとしたらしく、二人の方を凝と見た。
夫人は団長に耳打ちすると、つかつかとその男の傍へ寄って、何事か小声で囁いた。男はちょっと狼狽したらしかったが、夫人はそれには構わず、団長に会釈し私を連れて外へ出た。
少時待っていると、軈て洋服に着換えた狒々の男が、おずおずと私達の方へ近づいて来た。見るからに憔悴した顔をして頬骨の突き出たのが目につくほど目が落ち窪んでいるが、しかしそれにしても割合に整った風采のいい顔や、熱帯地方に長くいたらしいその皮膚の色は、どこかで一度見たような気がする、が、どうしても思い出せなかった。
夫人は突然、サーカスの例の女の写真と東伯爵夫人の写真を彼に突きつけて、語尾に力を入れて云った。
「貴方はこのどちらかを御存じですね?」
と、男は黙って下を向いてしまった。が、やや間を置いてから、やっと顔を上げてどもるように云った。
「こっちは存じませんけれど――」
とサーカスの女の方を指した。夫人はおっ被ぶせるように云った。
「じゃこっちは知ってるんですね?」
「知っていますとも、可哀想なことをいたしました」
「どうして御存じでしたの?」
「どうして?」
男は夫人と私の顔を等分に見ながら、淋しい笑い方をした。
「智恵子は私の許嫁だった女です。そして現在は弟の妻、東伯爵夫人となっていたのです」
夫人もこの意外な話にはひどく驚いたらしかった、私は片唾をのんだ。
「では貴方は、東伯爵のお足さんだとでも仰しゃるんですか?」
「兄なんです。南洋で虎に喰われて死んだという事になっている兄は私なんです。しかし実際はご覧の通り生きています。弟にとってはたった一人しかない兄弟、血を分けた兄なんですよ」
私達は何が何だか分らなくなった。そう云われてみれば、東伯爵によく似ている。どこかで見たような気がしたのは、彼に似ているためであったのだ。
しかし東伯爵に兄があるという噂は聞いたこともない、面ざしがちょっと似通っているというのを聞き伝えて、渡り者の男の事だから、何かためにしようとするのかも知れない。人の好さそうな顔付はしているがサーカスにいるような男の言葉を、真向から正直に受取ってしまっては、それこそどんなことになるかもしれない。しかし一応は彼の身の上を訊いておく必要もあろう。何かの参考にならないものでもない。夫人はそう考えたであろう。男の方へ向き直って云った。
「団長にはお断りしておきましたからいいでしょう? どこかで御飯でも食べながら、ゆっくり貴方のお話をお聞きすることにしたいんですが――」