鉄の処女

9話

2,124字 約4分 2013年2月11日 公開

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 何事か深い決心をしたS夫人はその晩遅く、助手の私を伴って、伯爵を訪問した。

 伯爵は直ぐに自分の居間に通して、

「何か、手がかりでもありました?」

 心配そうに訊くのだった。恰度二人がその部屋に入った時、伯爵は等身大の亡き夫人の肖像画の前に座って、香を焚き冥福を(いの)っていた。香の煙は美しい彼女の胸から顔へ、うっすりと立ちのぼっていた。

 私はその空々しい、殊勝気(しゅしょうげ)な行いを侮蔑の目で眺めた。

 S夫人はいつもの優しい態度で、静かに伯爵に云った。

「伯爵、もう好い加減な処で幕に致たそうではございませんか」

「――」

「あなたのお兄様はこの通り自殺しておしまいになりました」

 夫人は懐中から夕刊を出して、赤い線をひいた処を指した。

 伯爵の顔色は見る見るうちに変った、夫人は穏かな調子で、彼の口から物語られた一什始終(いちぶしじゅう)を話した。

 伯爵は沈黙(ひさし)ゅうして後、額の汗を拭いながら云うのだった。

「妻を殺したのは兄でもなく、また私でもありません。実は自殺なんです。上野で図らずも兄に出会って、すべての物語りを聞かされ、正直な妻は兄にすまない、せめて自分達の財産全部を返して、お詫びしなければならないと云ってきかないのです。私は慾に目がくらんで我意を通そうとする、その板挟みになって苦しみ、悶えぬいた揚句、自殺してしまったんです。妻は私よりもっと苦しい立場にありました、結婚こそしないが、死んだと思っていた許嫁の夫が、現在生きていて、しかもああした惨めな生き方をしているとあっては、迚も見ていられなかったのでしょう。私と顔を合せると妻は直ぐその問題を持ち出しては、責め立てるのです。

 ふじやホテルに電話をかけたのは私でした。妻はどうしても急に会い度い、と云って聞かないで。途中まで迎えに行って、二人は横浜へ行ったのです。

 途中からもうその問題が始まって、妻は相変らず自分の主張を少しも曲げない、私は私で、自分の云う事を頑張り通したのです。最後には私も疳癪(かんしゃく)を起して、もう一度兄を探し出して精神病院へ入れてしまうんだと云いました。

 妻は悲しそうな顔をしていました。

 軈て夕飯を食べるために、グランド・ホテルの食堂へ行きました。客は殆ど西洋人ばかりで、知り合いの人には誰れにも逢いませんでした。

 食事中妻は一言もいいませんでした。深い決意の色があらわれているのを見ましたが、打棄(うっちゃ)っておきました。私も腹を立てていたので、私の目の前で妻が薬を出したのを見て、私への面当(つらあて)にそんな真似をやるのか、勝手にしろと思っていました。処が狂言ではなく、妻はそれを一と息に呑んでしまったんです。唇の処へ持って行く時、ちょっと(うらみ)をふくんだ眼をして、私を見ました。私はいきなりその手を押えようと思って、フと気がついたんです、四辺の食卓には多数(おおぜい)の人がいるではありませんか、ボーイも背後に敬々(うやうや)しく立って見ています。そんな処で騒ぎ立てたら、それこそ私の身分も分り、早速新聞種です。そしていろいろの事をほじくり出されては堪りません。妻も生き耻を晒すことになります。体中に油汗をにじませながら、黙って凝と見守っていなければなりませんでした、私のような冷血な男でも、最愛の妻が目の前で毒を仰ぐのを見ながら、手を(つか)ねていなければならないというのは、何という恐しい事でしょう。

 私の体は凝結したように強張(こわば)って、頬は痙攣して引きつってしまいました。こんな残酷な刑罰がありましょうか、後になって考えたことですが、賢い妻は尋常一様の事では、到底私の意志を翻えし得ぬと知り、反省を促す最後の手段として故意とこういう場所を撰んだのではないかと思います。

 サロンへ戻ってからも妻は口をききませんでした。ホテルを出る頃はよほど苦しそうでしたので、円タクを拾い、横浜から邸まで附き添って、私が門内まで送り込んだのです。

 殆ど意識を失いかけている妻を無理に引き立てて、玄関の扉の処まで歩かせ、ベルを押して私は門の外へ逃げ出し、そこから見ていました。すると小間使が出て来て、妻がすうっと扉の中に吸い込まれるように入ったのを見届けてから、安心して、そのままクラブへ参り夜を更しました。

 なお万一の場合を考慮し、疑いを避けるために妻と一緒にいた時間を、五番町の妾宅に居ったように、よく妾に云いふくめておきました。

 しかし妻が自殺したとなると、ちょっとまた困ることがあるのです。いずれ家庭内に何かあったと怪しまれるでしょう? 結局兄の問題などが表面に出て来て、暗闇みの耻を明るみへ晒らさなければなりません。私はそれを何より怖れたんです。そこで策略をめぐらし、他殺にしてしまって、犯人として兄を掴まえてもらおう。そしてどこまでも狂人としてしまえばいいと思っていました。

 何しろ兄の行衛(ゆくえ)が分らないということは、私にとって非常な不安なので、S夫人に探し出して頂いて、直ぐ警察の手で捕縛させ、精神病院の院長に鑑定させれば、何もかも私の思い通りになると考えたのです」

 S夫人は最後まで静かに、微笑を浮べながら伯爵の話を聞いていた。彼女は多分初めからこうと見透しをつけていたのだろう。私達の仕事はこれで終った、あとの事は伯爵自身に任せることにして、二人は邸を辞した。

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