8話 8
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翌日夫人は暮れ方近くまで遂々事務所へ姿を見せなかった。
どんな忙しい時でも、朝はちょっと顔を出す例だのに、どうした事だろうと思いながら調べものをしている処へ、突然後の扉が開いて支那服を着ぶくれた大男がそそくさと入って来た、勿論それはS夫人だった。
「やっと探している、あの女の居所を見付けましたよ」
「サーカスの女でございますか? どうしてお分りになりましたんですの?」
「貴女に話してなかったけれど、私、実は伯爵家の運転手を買収しておいたんですよ」
そう云えば昨日見た男、あれは伯爵家の運転手だろう。円タクのにしては服装が立派だったし、態度にもどこやら丁寧なところがあった。
「その運転手が一々伯爵の行動を報告してくれていました。伯爵が足繁げく行く家が麹町辺にある事、五番町附近で自動車を乗り捨て、徒歩で出かけるが、ある時は四五時間も待たされる。帰りには必ず『どうも狭い横町に住む奴の気が知れんな』とか『訪問者泣せだよ』とか云い訳らしく愚痴をこぼす。少し変でしょう? どうもその家が怪しいと思って探らせてみたら何の事でしょう、馬鹿々々しいそこに私の探しているあの女が囲ってあったんですよ」
「どんな女でして?」
「妖婦型のあくどいような女でした。道楽をしつくした男でも、その女にかかッたら離れられないそうですから、女遊びを知らない伯爵が夢中になるのも無理はないでしょう。シンガポールに出発したように奥様の手前をつくって、実は目と鼻の処へ家を持たせ、豪奢な生活をさせているんです」
「伯爵も隅に置けませんわね」
「しかもその女には支那人の情人があるんです。同じサーカスで奇術に出ていた優男なんですが、今上海で興業しているんです。伯爵は無論そんな男のあることは知らないし。女の方でも秘密にしているということが分ったから、私は今日その男の友人だと云って訪問したんです。女は喜んで直ぐ会いましたよ」
いつもながら夫人の大胆なのには敬服してしまった。私はちょっと冗談のように云った。
「化の皮がはがれやしませんでしたの?」
「そこは都合がいいんです。支那語と日本語をまぜっこぜにして、饒舌ってやったもんだから、奴さん、すっかり真物の支那人だと思い込んじゃったんです。それから突然私は威嚇してやったの、伯爵夫人を殺したなア貴様だなッ――て」
「えッ? その女が殺したんでございますか?」
私は吃驚して訊きかえした。夫人はその問には答えないで話をつづけた。
「すると女は青くなって弁解するんです。殺したのは私じゃない、憎い憎いと思ってたけれど、私は何もしませんっていうんです。私はぐんぐん取ッちめてやると女もなかなかの強者で、策略家ですよ。咄嗟に考えたんでしょうが、金庫からお金を出して私の懐中に押し込み、殺したのは伯爵ですよ。と耳もとへ口を寄せて囁きました」
「まア! 伯爵だったんですの? なるほどそうかも知れませんわ。きっと奥様が邪魔になり出したんでしょう、それでなくてさえ財産をお兄さんに返してくれとやかましくせめていたし、伯爵は慾があって返す気はない、しかしこの儘捨てておいたら、あの奥様が承知するはずがありません。女中なんかの噂には、この頃は始終御夫婦で何事か云い争いをしているといいますから、伯爵は奥様を持てあましてらしたんじゃありませんか、そこで密かに毒殺して、その罪を蔭の男、即ちお兄さんに塗りつけ、こんどは殺人罪で永久にこの世から葬り去ろうという計画だったのでございましょう。恐しい人ですわね」
夫人は私の説を笑いながら聞いていたが、
「まだ犯人を伯爵だと断定するわけにはゆきませんよ。最初から私には九分通り判断はついていたんですが、あとの一分が分らないために苦しんでいるんです。まあ自然に解決がつくまで待っていらっしゃい」
そこへ給仕が夕刊を持って来た。
夫人は直ぐそれを広げて見ていたが、無言のままくるりと差向けて、ある箇所を指で押え注意を与えた。
「まあ!」私は思わず驚きの眼を見張った。
そこには『狒々の怪死』という題で、僅か数行の文字が書かれてあった。浅草で興行中のサーカスの愛嬌者、狒々男が評判の『鉄の処女』を演じている最中、陥穽から脱け損い、心臓を剣で突き刺れて即死したというのだ。過失だともいうし、またある一説には人気を嫉む者か、あるいは女関係の恨みから、肝心の脱け穴をこの日に限って作っておかなかったためだとも云う。取り調べ中だとあるが、夫人と私の頭には偶然か故意か、何かしら、そこに分ることがあるように思えた。