恐ろしき錯誤

3話 恐ろしき錯誤(3)

9,491字 約19分 2016年10月31日 公開

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 北川氏が野本氏と親しくなったのは、勿論学校が同じだったという点もあるが、それよりも、一人の女性を渇仰(かつごう)する青年達が、類を以て集った、そのグループの中の一員として、お(たがい)嫉視(しっし)し乍ら近づき合ったということが、より重大な動機を為していたのだった。

 そのグループの中には、北川氏、野本氏の外にまだ二三人の同じ青年達がいた。あの火事の際に、北川氏一家の避難所を承わった越野氏もその中の一人だった。それは七八年も以前のことで当時の青年達は、もうそれぞれ一かどの威厳を備えたプティ・ブルジョワになりすましていたが、流石(さすが)に昔忘れず附合っているのだった。

 では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それが即ち後の北川氏夫人妙子だったのである。

 妙子は山の手のある旧御家人(ごけにん)の娘だった。何々小町(こまち)と呼ばれた程の器量よしで、その上、教育こそ地味な技芸学校を出たばかりだったが、女としては可成理解力にも富んでいたし、昔気質(かたぎ)の母親の(しつけ)にもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかな所もあって、まず申分のない少女だった。

 当時北川氏は、遠い親戚に当る所から、妙子の家に寄寓して学校に通っていた。自然、妙子渇仰の青年達は、北川氏の書斎に集って来た。

 北川氏はその頃から、少し変人型のむっつりやで、学問にかけては誰にもひけを取らなかったが、交際という様なことは至って不得手だった。それにも拘らず、彼の書斎に客の絶えまがなかったというのは、彼を訪ねさえすれば、仮令一緒になって談笑するとまでは行かずとも、取次に出たり、お茶を運んで来たり、何かと妙子の顔を(おが)む機会があろうという、友人達の敵本(てきほん)主義の(たまもの)だった。その中でも、最もしげしげ彼の室に出入したのは、今云った野本氏、越野氏、その他二三氏のグループだった。彼等の暗闘は並々ならず烈しいものだった。だがそれはあくまで暗闘だった。

 就中(なかんずく)、野本氏は最も熱心だった、秀麗な容貌の持主で、学校の成績も先ず秀才の部に属してい、その上、随分調子のいい交際家でもあった野本氏が、我こそという自信を持っていたのは至極当然なことだ……。彼自身そう信じていたばかりでなく、競争者達も、残念乍ら彼の優越を否定する訳には行かなかった。北川氏の書斎に於ける談笑の中心は、いつも極った様に野本氏が引受けていた。時たま妙子が座にある時、若しそこに野本氏が居ないと、座が白けた。野本氏が居れば、彼女も快活に口を開いた。

 彼女が大声に笑ったりするのは野本氏の居る時に限られた。そういう調子で、彼は苦もなく妙子に接近して行ったのだった。

 誰しも野本氏こそ勝利者だと思った。

 色々な機会の色々な暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あとには唯プロポーザルが残っているばかりだと信じていた。

 彼等の関係が丁度そうした状態にある時、暑中休暇が来た。野本氏は優勝者の満悦を以て、いそいそと帰省の途に着いた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙子との(しば)しの別れを(かえ)って楽しいものに思わせた。

 遠方からの手紙の遣り取りによって、二人の間が(なお)一層接近するであろうことを予想しながら、野本氏は東京をあとにした。

 ところが、野本氏の帰省中に、俄然(がぜん)局面が一転した。野本氏があれ程も自分のものだと信じ切っていた妙子が、彼には一言の断りもなく、一同がまさかこの男がと、高を(くく)っていた、あのむっつりやの北川氏に()して了ったのであった。

 北川氏の喜悦に反比例して、野本氏の忿怒は烈しいものだった。それは忿怒というよりも寧ろ驚愕(きょうがく)であった。信じ切っていたものに裏切られた人の驚愕であった。これ見よがしに振舞っていた手前、彼は友達に合す顔がなかった。

 併し、これといってハッキリした約束を取交している訳ではなかったので、どうにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、違えるべき約束をまだしていないのだった。(もら)(すべ)のない(いきどお)りは野本氏の人物を一変させて了った。

 それ以来彼は余り物を云わなくなった。これまでの様に友達の家を遊び廻らなくなった。彼は唯、学問に没頭することによって、僅かに()()ない失恋の悲しみを(まぎ)らそうとした。北川氏はそれらの事情を知り過ぎる程よく知っていた。野本氏が其後今日に至るまで妻帯しないことが、彼の失恋の悲しみが如何に烈しいものだったかを証拠立てていると思っていた。それ丈けに彼と野本氏との間柄は、表面は同窓の友として附合っていたけれども、実は可成気拙いものになっていた。

 そうしたいきさつを考えると、野本氏があの様な復讐を企てるというのも随分尤もなことだったし、北川氏がそれを疑う心持も、決して無理ではなかった。

 さて、北川氏という男は、前にも一寸言及(いいおよ)んだ様に、少し変り者だった。

 社交的な会話、洒落(しゃれ)とか常談(じょうだん)とかいうものは、まるで駄目だった。彼はユーモアというものをてんで解しない様な男だった。併し議論などになると、可成雄弁に喋った。彼は何か一つの目的が極まらないことには何もする気になれぬらしかった。その代り、これと思い込むと、傍目(わきめ)もふらず突き進む方だった。そういう時は、目的以外の事にはまるで盲目になって了った。この性質があればこそ、彼は学問にも成功した。不得手な恋にさえ成功した。

 彼は二つの事を同時に念頭に置くことの出来ないたちだった。

 妙子を得るまでは妙子の事の外は何も考えなかった。妙子を得て了うと、今度は学問に熱中した。あれ程執心だった妙子を独りぼっちに抛ったらかして学問の研究に没頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは「可哀相な妙子」のことの外は何も考えられぬ彼であった。野本氏に対する復讐についても彼は狂的に熱中した。そして、その目的を果すと狂的に歓喜した。

 凡てが極端から極端へと走った。

 彼は一つ間違うと気違いになり()ねぬ様な素質を多分に持っていた。いや、現に、妙子の死因についてのある突飛な想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏の正気を信ずるには余りに気違いじみた思想ではなかったか。

 併し、北川氏は彼の想像の適中を固く信じていた。そして、その信念が今確証されたのであった。

 (かたき)と狙う野本氏は見事に北川氏の術中に陥って、彼の目の前に、あさましい苦悶の姿を(さら)したのであった。

 北川氏の話は、やっと長々しい前提を終って、復讐の眼目に入るのだった。

「その男の恐ろしい復讐には少しの手落ちもなかった。仮令それを推量することは出来ても、それは推量の範囲を一歩だって越えることは出来ないのだ。お前はこういう罪を犯したではないかと責めたところで、対手がそれに服しなければ、どうにもしようがないのだ。僕は唯その男の機智に感じ入って、じっとしている外はなかった。対手(あいて)は分っている。()かもそれを責める方法がない。こんな苦しい、変てこな立場があるだろうか。だが、野本君、安心して呉れ給え。僕はとうとうその男をとっちめる武器を発見したんだ。けれど、それは僕にとって何という残酷な武器だったろう。

 僕が発見した事実というのは、その男を苦しめると同時に僕を苦しめる。それを復讐の手段に用いる為には、先ず僕自身が対手と同様の苦しみを()めた上でなければ、役に立たない様な種類のものだった。僕は、あの、讐に毒饅頭(どくまんじゅう)を食わせる為に、先ず自から命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思出した。敵を(たお)せば自分も滅びる、自分が先ず死なねば対手を殺すことが出来ない。何という恐ろしい死にもの狂いな復讐だろう。

 だが、昔の忠臣の場合はまだいい。彼は復讐を思い止まりさえすれば、身を殺す必要はなかったのだ。ところが、僕の場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、その恐ろしい事実は、一刻一刻鮮明の度を加えて僕に迫って来るのだった。始めの間はボンヤリしたあるかなきかの疑だったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実らしくなって行った。そして、今ではそれが『らしく』などという言葉を許さぬ、火の様に明かな事実となって了った。今までは心の中の問題だったものが、余りに明瞭な証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となって了った。どっちみち、僕はこの苦しみを味わねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、多分僕よりも幾層倍打撃を(こうむ)るであろう讐にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち廻る有様を眺めてやろう。僕はそう決心したのだ。

 その当座、僕は毎日毎日その男の此上もなく巧妙な復讐のことより外は考えなかった。或は憤ったり、或は感心したりしながら、そればかりで頭の中が一杯になっていた。ところが、ある日、地平線の(はる)彼方(かなた)にぽっつりと浮んだ、一点の怪しげな黒雲の様に、ふと妙な考が浮んだ、成程、あの男は完全無欠な手際で復讐を()しとげた。併し、若し妙子が彼の信じている様に、彼を嫌っていなかったとしたらどうだ。いや、却って彼を愛していたとしたらどうだ。……そんな事がある筈はない。それは取り止めもない妄想だ。俺は頭がどうかしている。馬鹿な、そんなことがあってたまるものか。だが、併し、それは果してあり得ないことだろうか。何故、こんなとほうもない妄想が、俺の頭の中へ浮んで来たのだろう。僕は恐ろしさに身震いした。若し……若し、妙子があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。……

 自然に、僕の考は妙子との結婚当時の事情に移って行った。その男は結婚以前の僕にとって、一人の恐るべき競争者だった。僕は(ひそ)かに信じているんだが、その男自身も、彼の周囲の人達も、妙子が僕と結婚しようなどとは、毛頭考えていなかったに相違ない。そして、その男こそ、妙子の未来の夫たる仕合者(しあわせもの)だと信じていたに相違ない。それ程、その男は妙子の心を奪っていた。若しそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ず彼のもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに反して僕はというと、何一つ女の心を惹く様な美点を持合していなかったではないか。だが、僕の方には特別の武器があった。僕は妙子の家と遠い姻戚関係があった(ばか)りでなく、昔に(さかのぼ)れば、僕の一家は妙子の一家の主筋に当るのだった。そうした関係から、結婚を申込めば妙子の両親が、あの昔気質な老人達が、二つ返事で寧ろ有難く承諾するのは当然のことだった。そんな義理ずくからばかりでなく、物堅い僕の性質が『あの人なら』という風に彼等の深い信用をかっていたのだもの。その上、幸か不幸か、妙子自身が、どんなことがあっても親の言いつけには(そむ)き得ない様な、昔風の娘だった。心では、どれ程深く思いつめている男があっても、それを色に現す様なはしたない女ではなかった。僕はそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。仮令(よし)、これ程明瞭には考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。

 だが、誰れでも持っている様に、僕とても、人並の、いや恐らく人並以上の自惚(うぬぼ)れを持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗(しんちょく)して、さて一緒になって見ると、いつとはなしに、そうした自責に似た心持も消え去って了った。妙子は、僕を大切な旦那様として、十分貞節を尽して呉れた。『さては、あの男を恋していたと思ったのも、俺の疑心暗鬼であったか』お人好しの僕は一概にそう信じて了ったのだった。

 併し今にして思えば、妙子の外に女というものを知らぬ僕には、何とも判断しかねるけれど、恋というのは、あんなものではないらしい。僕と妙子の関係は、恋人というよりも、寧ろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか、考えて見れば僕も随分御坊ちゃんであった。三年間もつれ添っていながら、女房の心持がハッキリと分らないなんて、――実際、僕はこれまで、女房の心持について考えて見ようなどと、思ったことすらないのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界中の唯一人として愛するものだと単純に極めて了って、もう何の疑う所もなく、専門の仕事に没頭していたのだった。

 だが、今度の事件が僕の目を開いて呉れた。

 あとになって考えると、妙子のそぶりに腑に落ちぬ点が多々あった。ああ云う時、ほんとうに夫を愛している女房だったら、あんな風にはしなかったろうという様な、些細(ささい)な出来事が、それからそれへと思い浮ぶのだった。確かに、妙子は僕という夫に満足していなかったのだ。そして、心ならずも見棄てた所の、昔の恋人の姿を、絶えず心に抱き締めていたのだ。いや、心の上丈ではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな、暖い胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。

 僕はさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したといった。

 その証拠物というのは、見給え、これなんだ。このメダルは、君もよく知っている様に、妙子が娘時代から大切にしていた品だ。

 これは、やっと火事場から持出した彼女の手文庫の底に丁寧に天鵞絨(びろうど)のサックに入れて仕舞ってあったのを、つい数日前ふとしたことから発見したんだが、この妙子の秘蔵のメダルの中には、一体まあ何が入っていたと思う。この中には、野本君、その男の――越野が火事場で出逢った男の――妙子を無残に焼殺した男の――而かも、其の妙子が以前からずっと愛しつづけていた男の――写真が守り本尊の様にはりつけてあったのだよ。併し、若し、これが妙子が娘時代にその男の写真をはりつけて置いたまま、打忘れていたとでもいうのなら、まだしも、現に、彼女は僕と結婚した当座、確かにこの中へは僕の写真を貼りつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と代っていたというのは、これは一体何を語るものだろう」

 北川氏は、内懐へ手を入れて、一つの金製のメダルを取出した。そして、それを(てのひら)の上にのせてヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。

 野本氏は、怖れに耐えぬ様に、打震う手でそれを受取った。そして、メダルの表面の浮彫模様をじっと見入っていた。

 北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にありといった感じだった。あらゆる神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細い点までも見逃すまいと努力した。死の様な沈黙が続いた。

 野本氏は可也長い間メダルを見つめていた。

 彼は、その蓋を開いて、中の写真を確めようともしなかった。それは、そんなことをして見るまでもなく、余りに明白な事実として野本氏の胸を打ったのに相違なかった。……彼の表情は段々空虚になって行った。殊に彼の目は、視線丈はメダルに注いでいたけれど、何か外のことを深く深く思い込んででもいる様に、まるでうつろに見えた。やがて、彼の頭は、そろりそろりと下って行った。そして、遂には、彼はチャブ台の上に俯伏(うっぷ)して了ったのだった。その瞬間、北川氏は彼が泣き出したのではないかと思って、ハッとした。だが、そうではなかった。

 野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、最早や永久に起上ることの出来ない人の様に、俯伏したまま動かなかった。

 北川氏は、もうこれでいいと思った。

 勝利の快感で喉が塞がる様に思われた。それ以上話を続ける必要はなかった。仮令あっても、北川氏にはもう口が利けなかった。彼は《もが》く様にして立上った。

 そして、俯伏したままの野本氏を後目(しりめ)にかけてすっと座敷から出た。何も知らぬ婆やが周章(あわ)てて、彼の下駄を直しに出て来た。彼は躍る様な足取りで玄関の式台へ下りたとたんに、ドサリという音がした。

 北川氏は婆やの上に重って、無様に倒れていた。彼は興奮の余り痺れが切れたことすら意識しなかったのだ。

「かくして俺は勝ったのだ」

 北川氏は満悦の体で、まだ歩きつづけていた。

彼奴(あいつ)はあのメダルを永久に手離し得ないのだ。棄てようとしても、どうにも棄てられないのだ。いや、メダルそのものは仮令棄てることが出来ても、彼奴の頭の中には、いつまでも、いつまでも、恐らく墓場の中までも、持主の姿を代表する様にあのメダルがこびりついていることだろう。『これ程自分を思って呉れた人を、俺はこの上もない残酷な手段で焼殺して了ったのだ』奴は取り返しのつかぬ失策に、毎日毎日嘆き悶えることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか、何という申分のない手際だろう。流石は北川だ。お前は偉い。お前の頭は、日頃お前が信じている通り、実にすばらしいものだなあ」

 北川氏の歓喜は勝利の悲哀に転ずる一刹那前のクライマックスに達していた。

 彼は今、歩きつづけながらベースボールの応援者達が、「フレー、フレー、何とかあ」

 と(わめ)いて躍り上る時の様に、躍り上った。そして、気違いの様に涎を垂しながら、ゲラゲラと笑った。夥しい汗が、シャツを通して、薩摩上布の腰のあたりをべっとりと湿していた。真赤に充血した顔からは、ぽとりぽとりと汗の(しずく)が垂れていた。

「ワハハハハハハハハハハハハ、何という馬鹿馬鹿しい、子供だましなトリックだ。野本先生まんまとしてやられたね。エ、野本先生」

 彼は大きな声でこう呶鳴った。

 さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分丈けがほんとうで、後半分は彼の復讐の為に考え出した一つのトリックに過ぎないのだった。

 彼が妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。

 彼女が死んでから半月計りというものは、学校の方も休んで了って――それが彼の職業だった――()の目も寝ずに泣き悲しんでいた。「ママ、ママ」と母親の乳を尋ねる幼児と一緒になって泣いていた。

 越野氏――あの火事の時に深切に手伝って呉れた越野氏が、彼の新居へやって来て、妙子の死因についてある暗示を与えたまでは、彼は彼女の死を疑う余裕さえない程、唯訳もなく悲嘆に暮れていた。

 だが一たび越野氏の話を聞くと、彼は例の一本調子になって、悲しみを打忘れて復讐に熱中し出した。夜となく昼となく、彼は対手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。

 それは可成困難な仕事だった。第一、対手が誰であるか、それすら分らなかった。北川氏は越野氏が火事場で野本氏に逢った様に話したけれど、あれも作りごとだった。なる程、越野氏は見覚えのある男に逢ったと云った。そして、その男が如何にも彼の目を怖れる様に人混みの中へ隠れて了ったとも云った。

 それが誰であったか、越野氏はよく見別ける暇がなかったのだった。

「何でも、学校時代に親しく()()した友達の一人なんだ。何にしろ、あの騒ぎで、気が転倒している際だったから、ハッキリしたことは云えないが、野本か、井上か、松村か、つまり、あの時分君の書斎へよく集った連中の一人だと思うんだがね。野本のようでもあり、井上の様でもあり、そうかといって、松村でなかったとも断言し兼ねるが……とも角その三人の中の誰れかに相違ないのだけれど、どうしても思い出せない」

 越野氏はこんな風に云った。

 先ず相手から探してかからねばならないのだった。若し、間違った対手に復讐する様なことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、仮令対手が分ったとしても、余りに巧妙な遣り口にどうにも手のつけ様がないではないか、北川氏自身野本氏に白状した通り、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つまり、そこには二重の困難が横わっていたのだった。

 幾日となく、そればかりを考えている内に、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮んだ。それは法律に訴えることでは無論なかった。だといって、暴力を以て私刑を行うのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢獄や、そんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与え得る様な方法だった。そればかりでなく、もっといい事には、その方法による時は、態々真犯人を見出す面倒のないことだった。嫌疑者の凡てに、それを実行しさえすればよいのだった。

 真の犯罪者には此の上もない苦痛を与えるけれども、他の者は何等の痛痒も感じない方法だった。

 妙子が残して行った金メダルと、学生時代に、同じクラスの者が集って写した四つ切りの写真とが、その材料だった。

 北川氏は先ずその金メダルと同じものを二つ作らせた。そして、都合三つの、寸分違わないメダルが揃うと、今度はその中へ、夫々(それぞれ)、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、顔の所だけ切り抜いて貼りつけた。

 何という簡単な準備だ。これであの重大な仇討が出来ようとは。

「併し、対手のトリックは、もっと簡単でしかも自然だったではないか。世の中には、極めて些細な原因が、非常に重大な結果を招くことがあるものだ。このつまらないメダルと、古ぼけた切抜き写真が、一人の人間の一生の運命を左右する偉大な力を持っていないと誰れが断言出来るだろう。

 野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、この金メダルを見忘れている筈はない。殊にこの蓋の表面のヴィーナスの浮彫りは、あの頃俺の室へ来た程の青年達が皆熟知している筈だ。彼等が妙子の噂をし合う時には、いつもその本名を呼ぶ代りに、メダルの模様から思いついた『ヴィーナス』という渾名(あだな)を使っていた程ではないか。今若し、彼等の内の誰かが、妙子の手文庫の底深く秘めていた、このメダルの中に、自分の写真が貼付けてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に若しその誰かが、妙子を焼殺した本人だったら、その男の悲痛はまあどれ程だろう」

 実を言えば、越野氏の教えて呉れた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。だが、他の二人とても妙子に無関心であった筈はないのだから、疑って疑えないことはなかった。そこで、最も嫌疑の重い野本氏を最後に残して、先ず、井上、松村の両氏に、北川氏(みず)から名案と信ずる、このメダルのトリックを試みることにしたのだった。

 併し、両氏共、メダルを取出すまでもなく、その無実が明瞭になった。

 彼等は申合せた様に、北川氏の変てこな話を聴くと、気の毒だという表情をした。そして、

「君は細君に死なれて、少しとりのぼせているに相違ない。そんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるものか、君はもっと気を落着けなくちゃいけない。まあまあそんなつまらない話は()しにして、さあ一杯やり給え」

 という様な調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。彼等の表情には、犯罪者の疑懼(ぎく)などは影さえも差さなかった。

 北川氏は少なからず失望した。

「俺の考は、そんなに狂気じみているのかしら、若しかすると、これは彼等が云う様に、まるで根も葉もない妄想に過ぎないのではあるまいか。

 だが、まだ野本が残っている。俺は最初から彼奴をこそ目ざしていたのではないか。兎も角も最後までやって見なければ」

 こうして、彼は今日野本氏を訪れたのだった。そして、予期以上の見事な効果を収めたのだった。彼が狂者の様に歓喜したのは決して無理ではなかった。

 北川氏は二時間余りも、汗でベトベトになって歩き続けていた。ふと、時計を見ると、夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食時を過ぎていた。彼は漸く我に返った様に、今度は方向を定めて歩き出した。

 一日の興奮で疲れ切ったからだを、郊外電車に揺られながら、家にたどりつくと、彼はもう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、間もなく、快い鼾声(いびき)が、今日の勝利に満足し切った彼の喉から、ゆったりしたリズムを以て、洩れて来るのだった。

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