4話 恐ろしき錯誤(4)
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翌日、北川氏が眼を醒したのは、十時に近い頃だった。熟睡の後の快い倦怠が、彼を殊更らいい心持にした。彼は起上ると、寝衣のまま書斎へ入って行った。そこには甘い回想の材料が彼を待っていた。野本氏の手に残して来たのと寸分違わない、二つの金メダルが、書物机の抽斗の中に待っていた。
彼はそれを取出して愛撫する様に眺めるのだった。
始めの計画では、野本氏の所ばかりでなく、井上氏や、松村氏の所へも、それを残して来る積りだった。若し三人の内、誰が犯罪者だか判別しかねる様な場合には、どうしても一人に一つ宛メダルを残して来る必要があった。そういう積りで、彼は態々高価な摸造品を二つまで作らせたのだった。
併し、前にも云った様に、野本氏の外の二人はメダルを取出すまでもなく見分けがついた。北川氏は、大切に腹巻の中へ入れて行ったものを、二度ともその儘持ち帰らねばならなかった。彼は今、その不用に帰した二つのメダルを眺めているのだった。
「野本の奴、こんなトリックがあろうとは、まるで想像も出来ないだろう。ヘヘヘ、どうです。何とうまい手品でしょうがな。ところで一つ種明しを致しましょうか。さあ御覧なされ。手品の種というのは、この二つの金メダルで御座る。この中には一体何物が入っていると御思召す。分りますまい? では申しますがね。この一つには松村先生の写真、も一つには井上先生の写真が、ちゃんと入っているのですよ。野本先生の写真はもうここには……」
北川氏は、ふと台詞めいた独語を止めた。
彼は心臓がスーッと喉の方へ上って来る様な気がした。彼の顔が白紙の様に白くなった。今にもメダルの蓋を開こうとしていた彼の手は、突然、えたいの知れぬ恐れの為にバッタリその動作を中止した。
そして恐怖に耐えぬ彼の瞳がじっと空を見詰めた。
「俺はどんな細い点までも、注意に注意して事を運んだ積りだ。併し、この不安はどうしたというのだろう。何かとほうもない間違いをしていやしないかしら、お前は今、その肝心の点丈けがどうしても思出せないではないか。お前は野本の家へ行く時に、果して野本の写真の入っているメダルを持って行ったか。
さあ、しっかりしろ。若しも、お前が野本に渡したメダルに、松村か井上の写真が入っていたとしたら、どんな結果になるかよく考えて見よ。お前は恐ろしくはないか。そら、お前は震えているではないか。では、お前は、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤を、今思出したとでも云うのか」
彼はフラフラと立上った。そして、じっとしていられない様に、部屋の入口の方へ歩き出した。丁度其時、出逢頭に女中が一通の封書を手にして彼の書斎へ入って来た。
「旦那様、野本さんから御使いで御座います」
しゃっくりの様なものが北川氏の胸に込み上げて来た。
ある予感が、駄々子の様に、この手紙を読ませまいと、彼を引止めた。併し、いつまでもそうして女中と睨めっくらをしている訳には行かなかった。
彼は遂に意を決したものの様に、手紙を取って開封した。巻紙に書かれた達筆な野本氏の文字が焼きつく様に北川氏の目を射た。
読んで居る内に、物凄い笑いが北川氏の口辺に浮んで来た。その笑いが段々顔中に拡がって行った。
彼は、巻紙を持った両手をスーッと差上げたかと思うと、クルリ、その巻紙で頬冠りをした。そして、爆発した様に笑い出した。
「ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………」
彼は身を悶えて笑い続けた。丁度、朝顔日記の笑薬の段に出て来る悪医者の様に、止め度もなく笑いこけた。
こうして、可哀相な北川氏は発狂して了った。彼の発狂の原因が何ものであったか、我々は今俄かにそれを判断することは出来ない。
併し、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大なる近因であったと推定するのが、まず誤りのない所であろう。その野本氏の手紙には左の様な文句が綴られてあった。
前略
昨日は意外の失策御無礼の段幾重にも御容謝被下度候
実は数日来極度の多忙にてろくろく夜の目も寝ず仕事に没頭致居連日の睡眠不足より遂にあの不始末に及びたる次第に候貴君の御話も幽かには記憶致し居候得共何時御立帰りになりたることやらまるで前後忘却貴君の前をも憚らずいぎたなく熟睡に及びたる一埒何とも申訳の言葉も無之候朧気乍ら昨日の御話に依れば令閨御死去に関して何か疑惑を抱かれ居る様拝察致候得共常識より判断致せば御話の如き儀はよも有之間敷かと被存候愛人を失われたる御悲歎の程は千万御同情申上候得共余りに其事のみ思詰められては御健康にも宜しからず此際転地でも為され十分御静養相成候様差出がましき次第ながら旧友の老婆心より御忠告申上候
先ずは不取敢昨日の御詫旁々斯如に御座候
二伸御忘れの金メダル同封致置候確かこの中に貼付けある写真の主こそは恐るべき殺人者の様承り候得共さるにても御同様親しく往来致居る彼の松村君が仰せの如き極悪人なりとは断じて信じ難き所に御座候
封筒の中には、手紙の外に、白紙で包んだ金メダルが入っていた。どうして間違ったのか、そのメダルには野本氏のでなくて松村氏の写真が挟んであった。この手紙が野本氏の真意であったか、それとも、メダルの間違に乗じた彼の機智であったか、それは野本氏自身の外は誰れにも分らぬ永久の秘密だった。
かくして、北川氏の発狂の直接の動機となったものは、何と恐ろしい因縁ではないか。彼が平生口癖の様にしていた、所謂「脳髄の盲点」の作用だったのである。