鳥影

13話 (三)の三

1,411字 約3分 2008年11月11日 公開

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 穢苦(むさくる)しい六畳間の、西向の障子がパツと明るく日を()けて、室一杯に(たばこ)の煙が蒸した。

 信吾が入つて来た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態(ぶざま)に頬杖をついて熱心に喋つてゐた。

 山内謙三は、チヨコナンと人形の様に坐つて、時々死んだ様に力のない咳をし乍ら、(ずる)さうな眼を輝かして(おとな)しく聞いてゐる。萎えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬(ちりめん)の大幅の兵子帯を、小い体に幾廻(いくまはり)も捲いた、狭い額には汗が滲んでゐる。

 二人共、この春徴兵検査を受けたのだが、五尺不足(たらず)の山内は()が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何処か挙動(ものごし)が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が()げて、漆黒(まつくろ)な髪を(わざ)とモヂヤ/\長くしてるのと、度の(ひく)い鉄縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。

『……然うぢやないか、山内さん。俺は那時(あのとき)奈何(どう)してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、(どんな)偉い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寝ててもバイロンの顔が……』と景気づいて喋つてゐた昌作は、信吾の顔を見ると神経的に太い眉毛を動かして、

『実に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭(いや)な顔をして、口を(つぐ)んだ。

 信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて来て、無雑作に片膝を付く。と見ると山内は喰かけの麦煎餅の遣場(やりば)に困つた様に、臆病らしくモヂ/\して、顔を赧めて頭を下げた。

貴君(あなた)は山内さんですね?』と、信吾は鷹揚に見下す。

『ハ。』と(また)頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視(ぬす)む。

『何です、昌作さん? 大分(だいぶ)気焔の様だね。バイロンが()うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ/\して言ふ。

『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。

『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴君(あなた)もバイロン崇拝者で?』と山内を見る。

『ハ、(いいえ)。』と喉が塞つた様に言つて、山内は其狡さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髯を捻つてゐる信吾の顔を(ちら)と見た。

『然うですか。だが何だね、バイロンは()う古いんでさ。(あんな)のは今ぢや()古典(クラシツク)になつてるんで、彼国(むかう)でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雑で稚気があつて、(ひとり)で感激してると言つた様な詩なんでさ。新時代の青年が(あんな)古いものを崇拝してちや為様(しやう)が無いね。』

『真理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜つた様にザラ/\した声を少し顫して、昌作は倦怠相(けだるさう)胡坐(あぐら)をかく。

『ハツハヽヽ。』と信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を()れ/\読んだの?』

 昌作の太い眉毛が、痙攣(ひきつ)ける様にピリリと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。

『読まなくちや為様が無い!』と嘲る様に対手の顔を見て、

『読まなくちや崇拝もない。何処を崇拝するんです?』と揶揄(からか)ふ様な調子になる。

『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。

『富江さんが来たよ。』

 昌作はヂロリと(その)(はう)を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顔に出して、自暴(やけ)に麦煎餅を頬張つた。

 次の間にはお柳が不平相な顔をして立つてゐて、信吾の顔を見るや否や、

『何だねお前、(あんな)奴等の対手になつてさ! 九月になれや何処かの学校へ代用教員に遣るツて、阿父様(おとうさん)()言つてるんだから、那愚物(ばか)にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物(ばか)になるぢやないか!』と、険のある眼を一汐(ひとしほ)険しくして(たしな)める様に言つた。

 彼方(むかう)の室からは子供らの笑声に交つて、富江の(はしや)いだ声が響いた。

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