13話 (三)の三
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穢苦しい六畳間の、西向の障子がパツと明るく日を享けて、室一杯に莨の煙が蒸した。
信吾が入つて来た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態に頬杖をついて熱心に喋つてゐた。
山内謙三は、チヨコナンと人形の様に坐つて、時々死んだ様に力のない咳をし乍ら、狡さうな眼を輝かして穏しく聞いてゐる。萎えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬の大幅の兵子帯を、小い体に幾廻も捲いた、狭い額には汗が滲んでゐる。
二人共、この春徴兵検査を受けたのだが、五尺不足の山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何処か挙動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が削げて、漆黒な髪を態とモヂヤ/\長くしてるのと、度の弱い鉄縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。
『……然うぢやないか、山内さん。俺は那時、奈何してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、甚偉い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寝ててもバイロンの顔が……』と景気づいて喋つてゐた昌作は、信吾の顔を見ると神経的に太い眉毛を動かして、
『実に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭な顔をして、口を噤んだ。
信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて来て、無雑作に片膝を付く。と見ると山内は喰かけの麦煎餅の遣場に困つた様に、臆病らしくモヂ/\して、顔を赧めて頭を下げた。
『貴君は山内さんですね?』と、信吾は鷹揚に見下す。
『ハ。』と復頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視む。
『何です、昌作さん? 大分気焔の様だね。バイロンが怎うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ/\して言ふ。
『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。
『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴君もバイロン崇拝者で?』と山内を見る。
『ハ、否。』と喉が塞つた様に言つて、山内は其狡さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髯を捻つてゐる信吾の顔を閃と見た。
『然うですか。だが何だね、バイロンは最う古いんでさ。辺のは今ぢや最う古典になつてるんで、彼国でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雑で稚気があつて、独で感激してると言つた様な詩なんでさ。新時代の青年が那古いものを崇拝してちや為様が無いね。』
『真理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜つた様にザラ/\した声を少し顫して、昌作は倦怠相に胡坐をかく。
『ハツハヽヽ。』と信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何れ/\読んだの?』
昌作の太い眉毛が、痙攣ける様にピリリと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。
『読まなくちや為様が無い!』と嘲る様に対手の顔を見て、
『読まなくちや崇拝もない。何処を崇拝するんです?』と揶揄ふ様な調子になる。
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。
『富江さんが来たよ。』
昌作はヂロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顔に出して、自暴に麦煎餅を頬張つた。
次の間にはお柳が不平相な顔をして立つてゐて、信吾の顔を見るや否や、
『何だねお前、那奴等の対手になつてさ! 九月になれや何処かの学校へ代用教員に遣るツて、阿父様が然言つてるんだから、那愚物にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物になるぢやないか!』と、険のある眼を一汐険しくして譴める様に言つた。
彼方の室からは子供らの笑声に交つて、富江の噪いだ声が響いた。