鳥影

16話 (四)の三

1,341字 約3分 2008年11月11日 公開

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『あゝゝ。』といふ力無い欠呻(あくび)が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、(しはが)れた声で呼び、老女(としより)が眼を覚まして、寝返りでも()たいのであらう。

 智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、

『ハ、只今。』

と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の(こころ)(たた)へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。(いそが)しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。

 其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は(じつ)と呼吸を(こら)した。神から授つた義務を()たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。

『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』

老女(としより)の声が聞える。

『ホホヽヽ、今午後(ひるすぎ)の三時頃ですよ祖母(おばあ)さん。御気分は?』

(ちつ)とも平生(ふだん)と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』

(いいえ)、今日は土曜日ですから先刻(さつき)にお帰りになりましたよ。そしてね祖母(おばあ)さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの。』

(おや)()うかい。それぢやお前、何か御返礼に上げなくちや不可(いけ)ないよ。』

『まあ祖母さんは! 何時でも昔の様な気で……。』

『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく気を付けてね、先生を大事にして上げなけれや不可(いけ)ないよ。今度の先生の様に良い人はお前、何処に行つたつて有るものぢやないよ。』と小供にでも(をし)へる様に言ふ。

 智恵子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の(あつま)るを覚えた。

『ア痛、ア痛、寝返(ねがへり)の時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智恵子は気が付いた様に、また針を動かし出した。

 五分間許り経つてお利代が再び入つて来た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。

『御気分が()い様ね?』

『ハ。モウ夜が明けたかなんて(とぼ)けて……。』と少し笑つて、『(みんな)先生のお蔭で御座います。』

『マア小母さんは!』と同情深(おもひやりぶか)い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を(うち)の人の様にはして下さらないのね?』

『ですけれど先生、今もアノお祖母さんが、先生の様な人は何処に行つても無いと申しまして……。』と、流石は世慣れた齢だけに厚く礼を述べる。

『辛いわ、私!』と智恵子は言つた。

『何も私なんかに然う被仰(おつしや)る事はなくつてよ、小母さんの様に立派な心掛を有つてる人は、神様が助けて下さるわ。』

真箇(ほんと)に先生、生きた神様つたら先生の様な人かと思ひまして……。』

『マア!』と心から驚いた様な声を出して、智恵子は(すず)しい眼を(みは)つた。『(そんな)事被仰るもんぢやないわ。』

『ハ。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお諂辞(せじ)とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻(さつき)の手紙に行く。

『アラ小母さん、お手紙御覧なさいよ。何処から?』

『ハ?』と目を上げて、『函館からですの。……アノ、梅の父から。』と心持極悪気(きまりわるげ)に言ふ。

『マア然う?』と軽く言つたが、悪い事を訊いたと心で悔んで。

『アノ先月……十日許り前にも来たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』

と言つてる時、門口に人の気勢(けはひ)

『日向さんは?』

『静子さんですよ。』と囁いてお利代は急いで立つ。

『小母さん、これ。』と智恵子は先刻の紙幣(さつ)を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。

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