鳥影

21話 (四)の八

1,443字 約3分 2008年11月11日 公開

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 仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。

貴女(あなた)は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し突然(だしぬけ)に問うた。其の時はモウ肩も()れ/\に並んでゐた。

『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』

と落着いた答へをして(ちら)と男の横顔を仰いだが、智恵子の心には妙に落着がなかつた。前方(まへ)の人達からは何時しか七八間も遅れた。背後(うしろ)からは清子と静子が来る。其跫足も(どう)やら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に(きざ)してゐた。

 立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎(ひとあしごと)に思ふのだが、何故かそれも出来なかつた。

『あれはお読みですか、風葉の「恋ざめ」は?』と信吾はまた問うた。

『アノ発売禁止になつたとか言ふ……?』

『然うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけぢや無い、真面目な作で同じ運命に逢つたのが随分ありますからねえ。折角(こしら)へた御馳走を片端(かたつぱし)から犬に喰はれる様なもんで……ハハヽヽ。「恋ざめ」なんか別に悪い所が無いぢやないですか?』

『私はまだ読みません。』

『然うでしたか。』と言つて、信吾は()だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを()めてニヤ/\と薄笑(うすわらひ)を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。

 信吾は心に、()ういふ連想からか、かの「恋ざめ」に(かか)れてある事実(こと)――(いな)あれを書く時の作者の心持、否、あれを読んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。

 五六歩歩くと、智恵子の柔かな手に、男の手の甲が、()の葉が落ちて(さは)る程軽く触つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光(いなづま)の様な感じが智恵子の脳を掠めて、体が自ら(かた)くなつた。二三歩すると又触つた。今度は少し強かつた。

 智恵子は其手を口の(あたり)へ持つて来て、(かろ)故意(わざ)とらしからぬ咳をした。そして、(はた)と足を留めて背後(うしろ)を振返つた。清子と静子は肩を並べて、二人とも俯向(うつむ)いて十間も彼方(かなた)から来る。

 信吾は五六歩歩いて、思切悪気(おもひきりわるげ)に立留つた。そして矢張(やつぱり)振返つた。目は、淡く月光(つきかげ)を浴びた智恵子の横顔を見てゐる。コツ/\と(ステツキ)(さき)で下駄の鼻を叩いた。

 其顔には、(みづか)ら嘲る様な、或は又、対手を蔑視(みくび)つた様な笑が浮んでゐた。

 清子と静子は、霎時(しばし)は二人が立留つてゐるのも気付かぬ如くであつた。清子は初から物思はし気に俯向(うつむ)いて、そして、物も言はず、出来るだけ足を遅くしようとする。

『済まなかつたわね、清子さん、(こんな)に遅くしちやつて。』

と、モ少し(さき)に静子が言つた。

(いいえ)。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。

『だつて、お(うち)ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も慎次さんも被来(いらしつ)たんだから(いい)けど……。』

『静子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、(じつ)と静子の手を握つた。

()うして居たいわ、私。……』

『え?』

『恁うして! 何処までも、何処までも恁うして歩いて……。』

 静子は訳もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顔を見合さなかつた。何処までも恁うして歩く! 此美しい夢の様な(ことば)は華かな加留多の後の、疲れて(ぼうつ)として、淡い月光(つきかげ)と柔かな(もや)に包まれて、底もなき甘い夜の静寂(しづけさ)の中に(とろ)けさうになつた静子の心をして、訳もなき突差の同情を起さしめた。

(この)(ひと)は兄に未練を()つてる!』といふ考へが、瞬く後に静子の感情を制した。厭はしき怖れが胸に湧いた。

 然しそれも清子に対する同情を全くは消さなかつた。女は悲いものだ! と言ふ様な悲哀(かなしみ)が、静子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。

()うです。少し早く歩いては?』

と信吾が呼んだ。二人は驚いて顔を挙げた。

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