20話 (四)の七
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淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに湿うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき静寂の夢を罩めた。見知らぬ郷の音信の様に、北上川の水瀬の音が、そのシツトリとした空気を顫はせる。
男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭脳は、今までの華やかな明るい室の中の態と、この夜の村の静寂の間の関係を、一寸心に見出しかねる…………と、眼の前に加留多の札がチラつく。歌の句が断々に、混雑つて、唆るやうに耳の底に甦る。『那の時――』と何やら思出される。それが余りに近い記憶なので、却つて全体まで思出されずに消えて了ふ。四辺は静かだ。湿つた土に擦れる下駄の音が、取留めもなく縺れて、疲れた頭脳が直ぐ朦々となる。霎時は皆無言で足を運んだ。
田の中を逶つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は慎次、次は校長……森川山内と続いて、山内と智恵子の間は少し途断れた。智恵子のすぐ背後を、背高い信吾が歩いた。
智恵子は甘い悲哀を感じた。若い心はウツトリとして、何か恁う、自分の知らなんだ境を見て帰る様な気持である。詰らなく騒いだ! とも思へる。楽しかつた! とも思へる。そして、心の底の何処かでは、富江の阿婆摺れた噪ぎ方が、不愉快で不愉快でならなかつた。そして、何といふ訳もなしに直ぐ背後から跟いて来る信吾の跫音が、心にとまつてゐた。
其姿は、何処か、夢を見てゐる人の様に悄然とした髪も乱れた。
先づ平生の心に帰つたのは富江であつた。
『ね、沼田さん。那時ソラ、貴君の前に「むべ山」があつたでせう? 那が私の十八番ですの。屹度抜いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴君が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣たでせう? 私厭になつ了ひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻の事を喋り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。
『森川さんの憎いツたらありやしない。那に乱暴しなくたつて可のに、到頭「声きく時」を裂いツ了つた。……』
と、富江は気に乗つて語り亜ぐ。
信吾は、間隔が隔つてゐる為か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智恵子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後の静子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。
路が下田路に合つて稍広くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑声を囲んで一団になつた。町帰りの酔漢が、何やら呟き乍ら蹣跚とした歩調で行き過ぎた。
と、信吾は智恵子と相並んだ。
『奈何です、此静かな夜の感想は?』
『真箇に静かで御座いますねえ。』と、少し間を置いて智恵子は答へる。
『貴女は何でせう、加留多なんか余りお好きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、真箇に楽う御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ/\石を叩き乍ら歩いたが、
『何ですね。貴女は基督教信者で?』
『ハ。』と低い声で答へる。
『何か其方の本を、貸して下いませんか? 今迄遂宗教の事は、調べて見る機会も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふンです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覧になる様な本なんぞ……アノ、私こそ此夏は、静子さんにでもお願して頂いて、何か拝借して勉強したいと思ひまして……。』
『否、別に面白い本も持つて来ないんですが、御覧になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何処にも被行らないんですか?』
『え。先ア其積りで……。』
路は小い杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、四辺を香はした。