鳥影

20話 (四)の七

1,508字 約3分 2008年11月11日 公開

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 淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光(つきかげ)が柔かに湿(うるほ)うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を(とろ)かして、天地(あめつち)は限りなき静寂(しづけさ)の夢を()めた。見知らぬ(くに)音信(おとづれ)の様に、北上川の水瀬(みなせ)の音が、そのシツトリとした空気を顫はせる。

 男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭脳(あたま)は、今までの華やかな明るい室の中の(さま)と、この夜の村の静寂(しづけさ)の間の関係を、一寸心に見出しかねる…………と、眼の前に加留多の札がチラつく。歌の句が断々(きれぎれ)に、混雑(こんがらか)つて、(そそ)るやうに耳の底に甦る。『()の時――』と何やら思出される。それが余りに近い記憶なので、却つて全体(みな)まで思出されずに消えて了ふ。四辺(あたり)は静かだ。湿つた土に擦れる下駄の音が、取留めもなく(もつ)れて、疲れた頭脳が直ぐ朦々(もやもや)となる。霎時(しばし)は皆無言で足を運んだ。

 田の中を(うね)つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先(まつさき)に沼田が行く。次は富江、次は慎次、次は校長……森川山内と続いて、山内と智恵子の間は少し途断れた。智恵子のすぐ背後(うしろ)を、(たけ)高い信吾が歩いた。

 智恵子は甘い悲哀(かなしみ)を感じた。若い心はウツトリとして、何か()う、自分の知らなんだ境を見て帰る様な気持である。詰らなく騒いだ! とも思へる。楽しかつた! とも思へる。そして、心の底の何処かでは、富江の阿婆摺れた(はしや)ぎ方が、不愉快で不愉快でならなかつた。そして、何といふ訳もなしに直ぐ背後(うしろ)から()いて来る信吾の跫音が、心にとまつてゐた。

 其姿は、何処か、夢を見てゐる人の様に悄然(しよんぼり)とした髪も乱れた。

 先づ平生の心に帰つたのは富江であつた。

『ね、沼田さん。那時(あのとき)ソラ、貴君の前に「むべ山」があつたでせう? (あれ)が私の十八番(おはこ)ですの。屹度抜いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴君(あなた)が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ(やつ)たでせう? 私厭になつ(ちま)ひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻(さつき)の事を喋り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。

『森川さんの憎いツたらありやしない。(あんな)に乱暴しなくたつて(いい)のに、到頭「声きく時」を裂いツ(ちま)つた。……』

と、富江は気に乗つて語り()ぐ。

 信吾は、間隔(あひだ)が隔つてゐる為か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前(めのまへ)の智恵子を追うてゐた。そして、(その)(うしろ)の清子の心は信吾を追うてゐた。(その)(また)(うしろ)の静子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。

 路が下田路に合つて稍広くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑声を囲んで一団(ひとかたまり)になつた。町帰りの酔漢(よひどれ)が、何やら呟き乍ら蹣跚(よろよろ)とした歩調(あしどり)で行き過ぎた。

 と、信吾は智恵子と相並んだ。

奈何(どう)です、此静かな夜の感想(かんじ)は?』

真箇(ほんと)に静かで御座いますねえ。』と、少し間を置いて智恵子は答へる。

『貴女は何でせう、加留多なんか余りお好きぢやないでせう?』

『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、真箇(ほんと)に楽う御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。

『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は(ステツキ)(さき)でコツ/\石を叩き乍ら歩いたが、

『何ですね。貴女は基督教信者(クリスチヤン)で?』

『ハ。』と低い声で答へる。

『何か其方の本を、貸して(くださ)いませんか? 今迄遂宗教の事は、調べて見る機会も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふンです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』

『御覧になる様な本なんぞ……アノ、私こそ此夏は、静子さんにでもお願して頂いて、何か拝借して勉強したいと思ひまして……。』

(いや)、別に面白い本も持つて来ないんですが、御覧になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何処にも被行(いらつしや)らないんですか?』

『え。()ア其積りで……。』

 路は小い(もり)に入つて、月光(つきかげ)(さへぎ)つた青葉が風もなく、四辺(あたり)(にほ)はした。

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