鳥影

23話 (四)の十

1,524字 約3分 2008年11月11日 公開

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『然うなすつた方が(いい)わ、小母さん。』と、智恵子は俯向いたお利代の胸の(あたり)(じつ)(みつ)めた。

『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ余つた様な顔をあげたが、『()うせ行くとしましても、それやマア祖母(おばあ)さんが奈何(どう)にか、アノ快癒(なほ)つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかアノ、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先奈何(どう)なることかと思ふと……。』

『それやね、決めるまでにはマア、間違ひはないでせうけれど、先方(あちら)の事も詳しくナンして見てから……。』

『其処ンところはアノ、確乎(たしか)だらうと思ひますですが……今日もアノ、手紙の中に十円だけ入れて寄越して呉れましたから……。』

『おや然うでしたか。』と言つたが、智恵子はそれに就いての自分の感想を可成(なるべく)顔に現さぬ様に努めて、『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張(やつぱし)梅ちやんや新坊さんの為には……。』と、智恵子はお利代の思つてゐる様な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か()う、自分が今善事(いいこと)をしてると云つた様な気持がして来た。『然うで御座いますねえ。』とお利代は大きい眼を(しばたた)き乍ら、未だ明瞭(はつきり)と自分の心を言出しかねる様で、『()うして先生のお世話を頂いてると、私はモウ何日(いつ)までも此儘(このまんま)で居た方が、幾等(いくら)楽しいか知れませんけれども。』

『私だつて然う思ふわ、小母さん、真箇(ほんと)に……。』と言ひかけたが、何かしら不図胸の中に頭を擡げた思想(かんがへ)があつて言葉は途断れた。『神様の思召よ。人間(ひと)の勝手にはならないんですわね。』

『先生にしたところで、』と、お利代は智恵子の顔をマヂ/\と(みつ)め乍ら、『(どう)せ御結婚なさらなけやなりませんでせうし……。』

『ホヽヽ。』と智恵子は軽く笑つて、

『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』

 話題(はなし)はそれで()れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智恵子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを畳んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、眤と洋燈の火を(みつ)めて、時々気が付いた様に長い睫毛を(しばた)いてゐた。隣室では新坊が目を覚まして何かむづかつてゐたが、智恵子にはそれも聞こえぬらしかつた。

 智恵子の心は平生(いつ)になく混乱(こんがらが)つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを(どう)やら()うやら切抜けて来た心根を思ふと、実に同情に堪へない、今は加藤医院になつてる(うち)、あの家が以前(もと)お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の浜野屋の女主人(をんなあるじ)として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼様(ああ)して寝てゐる心は怎うであらう! 人間(ひと)の一生の悲痛(いたましさ)が、時あつて智恵子の心を脅かす。……然し、この悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福(さいはひ)が湧いて来た! 智恵子は、神の御心に委ねた身ながらに、(ひとり)ぼツちの寂しさを感ぜぬ訳にいかなかつた。

 行末()うなるのか! といふ真摯(まじめ)な考への横合から、富江の(はしや)いだ笑声が響く。ツと、信吾の生白い顔が(あたま)に浮ぶ、――智恵子は厳粛(おごそか)な顔をして、屹と自分を(たしな)める様に唇を噛んだ。

「男は浅猿(あさま)しいものだ!」

と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を読んだ頃が思出された。亡母(はは)の事が思出された。東京にゐた頃が思出された。

 遂に、()の頃のお友達は今怎うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢(はか)なく寂しく頼りなく張合のない、孤独の状態(ありさま)を、白地(あからさま)に見せつけられた様な気がして、智恵子は無性に泣きたくなつた。矢庭に両手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……

 佗しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。

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