23話 (四)の十
読み方を変える
『然うなすつた方が可わ、小母さん。』と、智恵子は俯向いたお利代の胸の辺を眤と睇めた。
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ余つた様な顔をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやマア祖母さんが奈何にか、アノ快癒つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかアノ、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先奈何なることかと思ふと……。』
『それやね、決めるまでにはマア、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しくナンして見てから……。』
『其処ンところはアノ、確乎だらうと思ひますですが……今日もアノ、手紙の中に十円だけ入れて寄越して呉れましたから……。』
『おや然うでしたか。』と言つたが、智恵子はそれに就いての自分の感想を可成顔に現さぬ様に努めて、『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張梅ちやんや新坊さんの為には……。』と、智恵子はお利代の思つてゐる様な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた様な気持がして来た。『然うで御座いますねえ。』とお利代は大きい眼を瞬き乍ら、未だ明瞭と自分の心を言出しかねる様で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はモウ何日までも此儘で居た方が、幾等楽しいか知れませんけれども。』
『私だつて然う思ふわ、小母さん、真箇に……。』と言ひかけたが、何かしら不図胸の中に頭を擡げた思想があつて言葉は途断れた。『神様の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』
『先生にしたところで、』と、お利代は智恵子の顔をマヂ/\と睇め乍ら、『怎せ御結婚なさらなけやなりませんでせうし……。』
『ホヽヽ。』と智恵子は軽く笑つて、
『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
話題はそれで逸れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智恵子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを畳んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、眤と洋燈の火を睇めて、時々気が付いた様に長い睫毛を瞬いてゐた。隣室では新坊が目を覚まして何かむづかつてゐたが、智恵子にはそれも聞こえぬらしかつた。
智恵子の心は平生になく混乱つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを怎やら恁うやら切抜けて来た心根を思ふと、実に同情に堪へない、今は加藤医院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の浜野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼様して寝てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が、時あつて智恵子の心を脅かす。……然し、この悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて来た! 智恵子は、神の御心に委ねた身ながらに、独ぼツちの寂しさを感ぜぬ訳にいかなかつた。
行末怎うなるのか! といふ真摯な考への横合から、富江の躁いだ笑声が響く。ツと、信吾の生白い顔が脳に浮ぶ、――智恵子は厳粛な顔をして、屹と自分を譴める様に唇を噛んだ。
「男は浅猿しいものだ!」
と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を読んだ頃が思出された。亡母の事が思出された。東京にゐた頃が思出された。
遂に、那の頃のお友達は今怎うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤独の状態を、白地に見せつけられた様な気がして、智恵子は無性に泣きたくなつた。矢庭に両手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……
佗しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。