24話 (五)の一
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何日しか七月も下旬になつた。
かの加留多会の翌日、信吾は初めて智恵子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの翻訳一二冊に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの、評論の載つてゐる雑誌を態々持つて行つて貸して、智恵子からはルナンの耶蘇伝の翻訳を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智恵子を訪ねた。
信吾は智恵子に対して殊更に尊敬の態度を採つた。時としては、モウ幾年もの親い友達の様な口も利くが、概して二人の間に交換される会話は、這田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生とか信仰とか創作とかいふ語が多い。信吾は好んで其問題を担ぎ出し、対手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲学上の議論までする。心して聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる智識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其事を調子よく喋る時は、血の多い人のする様に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した様子をする。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に真摯になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふことも遂人の前では言へなかつたりする様になつてゐたんですが……実に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は真摯な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演りたくなつて来て、遂心にない事まで言つて了ひます。』
智恵子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑を心配せぬ訳にいかなかつた。狭い村だけに少しの事も意味あり気に囃し立てるが常である。万一其事があつては誠に心外の至りであると智恵子は思つた。それで可成寡言に、隙のない様に待遇つてはゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。帰つた後で考へてみると、男には矢張気障な厭味な事が多い。殊更に自分の歓心を買はうとするところが見える。
『那した性質の人だ!』
と智恵子は考へた。
智恵子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例に変らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤ/\心で笑ひ乍ら川崎の家へ帰る。
暑気は日一日と酷しくなつて来た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が充分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。
今朝も朝から雲一つ無く、東向の静子の室の障子が、カツと眩しい朝日を享けて、昼の暑気が思ひやられる。静子は朝餐の後を、母から兄の単衣の縫直しを咐つて、一人其室に坐つた。
ちらと鳥影が其障子に映つた。
『静さん、其単衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて来た。
『兄様、今日は屹度お客様よ。』
『何故?』
『何故でも。』と笑顔を作つて、『ソーラ御覧なさい。』
その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。
『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』