25話 (五)の二
読み方を変える
『アラ、四五日中にお立ちになるツて昨日のお手紙ぢやなかつたの?』
『然うよ。だが那の男の予定位アテにならないものは無いんだ。雷みたいな奴よ、雲次第で何時でも鳴り出す……。』
と信吾は其処に腰を下して、
『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』
『然う?』と、静子は解きかけたネルの単衣に尺を用つて見て、『七寸……六分あるわ。短かなくつてよ、幾何電信柱さんでも。』
『否短い。本人の言ふ事に間違ツコなしだ。ソラ、其処に縫込んだ揚があるぢやないか。それ丈下して呉れ。』
『だつて兄様、さうすれば九寸位になつてよ。可わ、そんなら八寸にしときませう。』
『吝だな。モ少し負けろ。』
『ぢや八寸一分?』
『モット負けろ、気に合はないから着ないツて言つたら怎うする?』
『それは御勝手。』
『其風でお嫁に行かれるかい?』
『厭よ、兄様。』と信吾を睨む真似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。可いでせう? その吉野さんて方、この春兄様と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』
『《うん》。』と言ひ乍ら、手を延ばして、静子の机の上から名に高き女詩人の「舞姫」を取る、本の小口からは、橄欖色の栞の房が垂れた。
『長くお泊りになるんでせう?』
『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日でも飛び出すだらう、彼奴の事だから。』と横になつて、
『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を翻る。
『え。兄様何か有つてらツしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』
『否、遂買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏」といふのが出た筈だ。』
『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』
『吉野が?』と妹の顔を見て、『彼奴の詩は道楽よ。時々雑誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋画の方だ。』
『然う?』と清子は鋏の鈴をコロ/\鳴らし乍ら、『展覧会なんかにお出しなすつて?』
『一度出した。アレは美術学校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覧会――ソーラ、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ画があつたらう?』
『然うでしたらうか?』
『アレだ。夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顔をした女が可厭な眼付をして、真白な猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には披げた手紙があつて、女の頭へ蔽被さる様に鉢植の匂ひあらせいとうが咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、変な形で飛んでゐた。』
『見た様な気もするわ。それでナンですの、「嵐の前」?』
『然うよ、その画の意味は那の頃の人に解らなかつたんだ。日本のモロウよ、仲々偉い男だ。』
『モロウて何の事?』
『ハツハヽヽ。仏蘭西の有名な画家だ。』
『然う!』と言ひは言つたが、日本のモロウと云ふ意味は無論静子に解りツコはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其方なら何故其後お出しにならないでせう?』
『然うさ、マア自重してるんだらう。彼奴が今度画いたら屹度満都の士女を驚かせる! 俺には近頃色ンな友人が出来たが、吉野君なんか其中でもマア話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聴する様な調子で言ふ。
『姉様、姉様。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がドタバタ駆けて来た。
『何ですねえ、其に駆けて!』
『でも、』と不平相な顔をして、『日向先生が被来たんだもの!』
『おや!』と静子は兄の顔を見た。先程障子に映つた鳥影を思出したので。