鳥影

25話 (五)の二

1,413字 約3分 2008年11月11日 公開

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『アラ、四五日中にお立ちになるツて昨日のお手紙ぢやなかつたの?』

『然うよ。だが()の男の予定位アテにならないものは無いんだ。雷みたいな奴よ、雲次第で何時(なんどき)でも鳴り出す……。』

と信吾は其処に腰を下して、

『オイ、此衣服(きもの)は少し短いんだから、長くして呉れ。』

『然う?』と、静子は解きかけたネルの単衣に(ものさし)(つか)つて見て、『七寸……六分あるわ。短かなくつてよ、幾何(いくら)電信柱さんでも。』

(いや)短い。本人の言ふ事に間違ツコなしだ。ソラ、其処に縫込んだ(あげ)があるぢやないか。それ(だけ)下して呉れ。』

『だつて兄様、さうすれば九寸位になつてよ。(いい)わ、そんなら八寸にしときませう。』

(けち)だな。モ少し負けろ。』

『ぢや八寸一分?』

『モット負けろ、気に合はないから着ないツて言つたら()うする?』

『それは御勝手。』

『其風でお嫁に行かれるかい?』

『厭よ、兄様(にいさん)。』と信吾を睨む真似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。()いでせう? その吉野さんて方、この春兄様と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』

『《うん》。』と言ひ乍ら、手を延ばして、静子の机の上から名に高き女詩人の「舞姫」を取る、本の小口からは、橄欖色(オリーブいろ)(しをり)の房が垂れた。

『長くお泊りになるんでせう?』

『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日(いつ)でも飛び出すだらう、彼奴(あいつ)の事だから。』と横になつて、

『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を(めく)る。

『え。兄様(にいさん)何か有つてらツしやらなくつて、(その)(かた)のお書きになつたの。』

(いや)(つい)買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏(とこなつ)」といふのが出た筈だ。』

『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』

『吉野が?』と妹の顔を見て、『彼奴(あいつ)の詩は道楽よ。時々雑誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張(やつぱり)洋画の方だ。』

『然う?』と清子は鋏の鈴をコロ/\鳴らし乍ら、『展覧会なんかにお出しなすつて?』

『一度出した。アレは美術学校を卒業した年よ。然うだ、一昨年(をととし)の秋の展覧会――ソーラ、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ画があつたらう?』

『然うでしたらうか?』

『アレだ。夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顔をした女が可厭(いやあ)な眼付をして、真白な猫を抱いてゐたらう? 卓子(ていぶる)の上には(ひろ)げた手紙があつて、女の頭へ蔽被(おつかぶ)さる様に鉢植の匂ひあらせいとうが咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、変な形で飛んでゐた。』

『見た様な気もするわ。それでナンですの、「嵐の前」?』

『然うよ、その画の意味は()の頃の人に解らなかつたんだ。日本のモロウよ、仲々偉い男だ。』

『モロウて何の事?』

『ハツハヽヽ。仏蘭西の有名な画家だ。』

()う!』と言ひは言つたが、日本のモロウと云ふ意味は無論静子に解りツコはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『(そんな)方なら何故其後お出しにならないでせう?』

『然うさ、マア自重してるんだらう。彼奴(あいつ)が今度画いたら屹度満都の士女を驚かせる! 俺には近頃色ンな友人が出来たが、吉野君なんか(その)(うち)でもマア話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聴する様な調子で言ふ。

姉様(ねえさん)、姉様。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がドタバタ駆けて来た。

『何ですねえ、其に駆けて!』

『でも、』と不平相な顔をして、『日向先生が被来(いらしつ)たんだもの!』

『おや!』と静子は兄の顔を見た。先程障子に映つた鳥影を思出したので。

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