鳥影

3話 (一)の三

1,215字 約2分 2008年11月11日 公開

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 信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、

『だが何か? 服薬はしてるだらうね?』

『ええ。……加藤さんが毎日来て診て下さるのよ。』

『然うか。』と言つて、また(わざ)とらしく、『然うか、加藤といふ医師(いしや)があつたんだな。』

 静子はチラリと兄の顔を見た。

『医師が毎日来る様ぢや、余り軽いんでもないんだね?』

『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』

『フム、交際家か!』と短い髯を捻つて、

『其風ぢや相応に繁昌(はや)つてるんだらう?』

『ええ、宅の方へ廻診に来る時は、大抵自転車よ。でなけや馬に()つて来るわ。』

『ホウ、景気をつけたもんだな。そして何か、モウ小児(こども)が生れたのか?』

『……まだよ。』と低い声で答へて目を落した。

『それぢや清子さんも暇があつて()いんだらう。』

『ええ。』

『女は小児を()つと、モウ最後だからな。』

 静子は妙にトチツて、其儘口を(つぐ)んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎(どだい)に想像する。静子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度帰つて来て、毎日来る加藤と顔を合せるのも、兄は(どんな)に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狭い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに関した事を言出されるかと、宛然(さながら)、自分の持つてゐる鋭い刃物に対手が手を出すのを、ハラ/\して見てゐる様な気がしてゐたが、信吾の言語(ことば)は、故意(わざと)かは知れないが余りに平気だ、余りに冷淡だ。今迄の心配は杞憂に過ぎなかつた様にも思ふ。又、兄は自ら偽つてるのだとも思ふ。そして、心の底の奈辺(どこ)かでは、信吾がモウ清子の事を深く心にとめても居ないらしい口吻(くちぶり)を、何となく不満足に感じられる。

 その素振を見て取つて、信吾は亦自分の心を妹に勝手に忖度(そんたく)されてる様な気がして、これも黙つて了つた。

 二人は並んで歩いた。蒸す様な草いきれと、乾いた線路の土砂(つち)の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。静子の顔は、先刻(さつき)怡々(いそいそ)した光が消えて、妙に真面目に引緊つてゐた。小妹共はモウ五六町も先方(さき)を歩いてゐる。十間許り前を行く松蔵の後姿は、荷が重くて(こご)んでるから、大きい鞄に足がついた様だ。

 稍あつてから信吾は、

『あの問題は、一体奈何(どう)なつてるんだい?』と妹を見かへつた。

『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顔を仰ぐ。

『ああ。余程切迫してるのかい?』

『さうぢや無いんですけど……。』

『手紙の様子ぢや然う見えたんだが。』

『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『(どう)貴兄(あなた)の居る(うち)に、何とか決めなけやならない事よ。』

『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』

『ええ。兄様(にいさん)の帰つてらつしやるのを待つてたんだわ。』

 信吾は少し言淀んで、『昨日発つ時にね、松原君が上野まで見送りに来て呉れたんだ。……』

 静子は黙つて兄の顔を見た。松原政治(せいぢ)といふのは、近衛の騎兵中尉で、今は乗馬学校の生徒、静子の縁談の対手なのだ。

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