鳥影

31話 (七)の一

1,394字 約3分 2008年11月11日 公開

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 宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣(あゆかけ)に出懸けた。

 休暇になつてからの学校ほど伽藍堂(がらんどう)に寂しいものはない。建物が大きいのと、平生耳を聾する様な喧騒(さわぎ)に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人来ないとなると、俄かに荒れはてた様な気がする。常には目立たぬ塵埃(ちりほこり)が際立つて目につく、職員室の卓子(テーブル)の上も、硯箱やら帳簿やら、皆取片付けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。

 (ものう)いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の帰りを待つ間の退屈を、額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外(そと)を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉に(そよ)との風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四周(あたり)が妙に静まり返つてゐる。其処へブラリと昌作が遣つて来た。

『暑いでせう外は。先刻(さつき)から眠くなつて/\為様(しやう)のないところだつたの。』と富江は椅子を薦める。年下の弟でも(あしら)ふ様な素振だ。

 それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく『暑い/\。』と帽子も冠らずに来た()のモヂヤ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲り上げた儘腰を下した。

『森川君は?』

『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』

『すると何だな、貴女が留守役を仰付かつて弱つてゐたんだな。ハハヽヽ好い気味だ。』

『口の悪い! 何が好い気味なもんですか。(そんな)事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。

『フム。』と昌作は妙に済し込んで、『御勝手に。』

『マア口許りぢやない人が悪くなつたよ、小供の癖に!』

と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、『然う/\、一昨日は御馳走様。お客様はまだ帰つてらつしやらないの?』

『アーイ。』と彼方(かなた)で眠さうな声。

『まだ。今日か明日帰るさうだ。吉野(さん)がゐないと俺は薩張(さつぱり)詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して来たんだ。』

『生憎と日向様もまだ帰らないの。』と富江は調戯(からか)ふ眼付で青年の顔を見た。其処へ白髪頭の小使が入つて来て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて来いと命ずる。

『ソラ、到頭買ふンだ。』と昌作はシタリ顔。

『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と不減口(へらずぐち)を叩いて、『よ、昌作(さん)、ハイカラの智恵子さんもまだ帰らないの。』

『フム。』

『何がフムですか。昌作(さん)の歌を大変賞めてるから、行つて御礼を被仰(おつしやい)よ。』

『フム。(うち)の信吾ぢやないし。』

『え? 信吾さんが?』

『知らない。』

『信吾(さん)が行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽ、マア好い事聞いた。』

と、富江はハヂケた様に一人で騒いで、

『マア好い事聞いた、信吾(さん)が智恵子(さん)(とこ)へ行くの。今度逢つたらウント揶揄(からか)つて上げよう。ホホヽヽ。』

 昌作は冷かに其顔を眺めてゐたが、

()けない/\。其話、吉野(さん)の前なんかで言つちや可けませんぞ。』

『アラ、()うして?』と(せは)しい眼づかひをする。

『だつて、詰らないぢやないですか。』

『詰らない? 言ひますよ私。』

『詰らない! 第一吉野(さん)の前で其事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』

『マア、大層見識が高くなつたのね?』

 すると昌作は、忽ち不快な顔をして黙つた。

(どんな)に豪いの、その方は?』

『時にですな、』と昌作は付かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて来たんだ。』

『オヤ、誰方(どなた)から?』

 其時小使が駄菓子の袋を(うやうや)しく持つて入つて来た。

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