31話 (七)の一
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宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
休暇になつてからの学校ほど伽藍堂に寂しいものはない。建物が大きいのと、平生耳を聾する様な喧騒に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人来ないとなると、俄かに荒れはてた様な気がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく、職員室の卓子の上も、硯箱やら帳簿やら、皆取片付けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。
懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の帰りを待つ間の退屈を、額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉に習との風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四周が妙に静まり返つてゐる。其処へブラリと昌作が遣つて来た。
『暑いでせう外は。先刻から眠くなつて/\為様のないところだつたの。』と富江は椅子を薦める。年下の弟でも遇ふ様な素振だ。
それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく『暑い/\。』と帽子も冠らずに来た髪のモヂヤ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲り上げた儘腰を下した。
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰付かつて弱つてゐたんだな。ハハヽヽ好い気味だ。』
『口の悪い! 何が好い気味なもんですか。其事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。
『フム。』と昌作は妙に済し込んで、『御勝手に。』
『マア口許りぢやない人が悪くなつたよ、小供の癖に!』
と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、『然う/\、一昨日は御馳走様。お客様はまだ帰つてらつしやらないの?』
『アーイ。』と彼方で眠さうな声。
『まだ。今日か明日帰るさうだ。吉野様がゐないと俺は薩張詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して来たんだ。』
『生憎と日向様もまだ帰らないの。』と富江は調戯ふ眼付で青年の顔を見た。其処へ白髪頭の小使が入つて来て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて来いと命ずる。
『ソラ、到頭買ふンだ。』と昌作はシタリ顔。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と不減口を叩いて、『よ、昌作様、ハイカラの智恵子さんもまだ帰らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作様の歌を大変賞めてるから、行つて御礼を被仰よ。』
『フム。家の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾様が行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江はハヂケた様に一人で騒いで、
『マア好い事聞いた、信吾様が智恵子様の許へ行くの。今度逢つたらウント揶揄つて上げよう。ホホヽヽ。』
昌作は冷かに其顔を眺めてゐたが、
『可けない/\。其話、吉野様の前なんかで言つちや可けませんぞ。』
『アラ、怎うして?』と忙しい眼づかひをする。
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野様の前で其事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』
『マア、大層見識が高くなつたのね?』
すると昌作は、忽ち不快な顔をして黙つた。
『甚に豪いの、その方は?』
『時にですな、』と昌作は付かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて来たんだ。』
『オヤ、誰方から?』
其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて来た。