32話 (七)の二
読み方を変える
『当てて御覧なさい。』と昌作はシタリ顔に拗ねる。
其顔を、富江はマジ/\と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾様から?』
ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急がしく瞬きをしながら顔を大きく横に振る。
『そんなら、誰方?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく済したものだ。
『懊つたい!』と自暴に体を顫はせて、
『よ、誰方からツてばサ。』
『ハツハハ、解りませんか?』と、何処までも高く踏んで出る。
『好いわ、モウ聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。実はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前貴女から「恋愛詩評釈」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを再読みたいから俺に借りて来て呉れと言ふンですがね。』
『オヤ、何故御自分で被来らないでせう?』
『だつて寝てるんだもの。』
『ぢやモウ、病床に就いたの?』と低目に言つて、胡散臭い眼付をする。
『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に会つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『アラ昌作さん、山内様は肺病だつてンぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顔をしたが、『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終那妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんが然言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と気がさした様に声を落して、
『だけど私が言つたなんか言つちや不可よ。よ、昌作様、貴方も伝染らない様に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那小い体をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふンだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の様な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那一寸法師さんを一人前の人待遇にするもんですか。』
そして取つて付けた様にホホヽヽと再笑つた。
『だから不可い。』と昌作は錆びた声に力を入れて、『体の大小によつて人を軽重するといふ法はない。真箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆然うだ。』
『然うでないのは日向のハイカラ様許りでせう?』
昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂で跛足だつたさうだ。人物の大小は体に関らないサ。』と、三文雑誌ででも読んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内様は別に大詩人でもないぢやありませんか!』
『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』
『家に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるサ。』と頼む様な語調。
『肺病患者なんかに!』と独言つ様に言つて、
『アノね、昌作さん。』と可笑しさを怺へた様な眼付をする。『恁う言つて下さいな、山内様に。アノね、評釈なんか無くたつて解るぢやありませんかツて。』
『え? 何ですツて?』と昌作は真面目に腑に落ちぬ顔をする。
『ホホヽヽヽ。』と富江は一人高笑ひした。そして、『書はね、後刻で誰かに届けさせますよ。』
一時間程経つて、昌作は、来た時の様にブラリと、帽子も冠らず、単衣の両袖を肩に捲り上げて、長い体を妙に気取つて、学校の門を出た。
そして川崎道の曲角まで来た時、三町彼方から、深張の橄欖色の女傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて来るのに目をつけた。『ハハア、帰つて来たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ツイと横路へ入る。
三日前に画家の吉野と同じ車に乗合せて、大沢温泉に開かれた同級会へ行つた智恵子は、今しも唯一人、町の入口まで帰つて来た。