55話 (十一)の六
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程なくして吉野や静子等も帰路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智恵子の病気の気に懸らぬではないが、寄つて見る訳にも行かぬ。
それから小一時間も経つた。
富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒヨクリと信吾が出た。続いて富江も出た。
『好い月!』
恁う富江が言つた。信吾は自ら嘲る様な笑ひを浮べて、些と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと軽く笑つた。
太鼓の響と唄の声が聞える、四辺は森として、何処やらで馬の強く立髪を振る音。
『一寸、其に済まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く様に言つた。
『マ酷い! 散々人を虐めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左様なら!』
『一寸々々、真箇よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は再妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家へ入つた。
人なき裏路を自棄に急ぎながら、信吾は浅猿しき自嘲の念を制することが出来なかつた。少許下向いた其顔は不愉快に堪へぬと言つた様に曇つた。
『莫迦!』
と声を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
信吾の心が生れてから今日一日ほど動揺した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智恵子を訪ふと、初めは盛んに気焔を吐いた。現代の学者を糞味噌に罵倒し尽し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚話の機会からか、智恵子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤と俯向いてゐた。
最後に信吾は言つた。
『智恵子さん、貴女は哀れな僕の述懐を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智恵子さん!』と、情が迫つたといふ様に声を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智恵子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです。それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……』
『小川様!』と、女は佶と顔をあげた。其顔は眉毛一本動かなかつた。『私の様なもののことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『ハ』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない様にお願ひします。』
信吾は眤と腕を組んだ。
『失礼な事を申す様ですが……』
『ウヽ……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、サモ落胆した様に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰るからには有らうぢやありませんか? それを話して頂く訳にいかないんですか?』
『…………』
『智恵子さん! 僕がこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお断りになるとは余りです。余りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『其らです、』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た様に言つた。其眼は物凄く輝いた。『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智恵子さん、怎うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳した。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犠牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
智恵子は胸を刺されたやうにビクリとした。然し一寸も動かなかつた。顔色も変へなかつた。
『怎うです、』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを、享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての真心からお二人の為に祝ひます。怎うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
智恵子の顔はクワツと許り紅くなつた。そして、
『有難う御座います。』
と、明瞭言放つた。