鳥影

56話 (十一)の七

1,757字 約4分 2008年11月11日 公開

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 智恵子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何か知ら弱い者を虐めてやつた時の様な思ひに乱れてゐた。()うなると彼は、今日自分の遣つた事は、(あらか)じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に(はま)つて智恵子に自白さしたかの様に考へる。我と我を軽蔑(さげす)まうとする心を、強ひて(そんな)風に考へて抑へて見た。

 信吾は、成べく平静な態度(ふり)をして、その足で直ぐ加藤医院を訪ね、学校を訪ねた。彼は夕方までに帰つて、吉野や妹共と一緒に踊見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。

 其時の信吾は、平常(ふだん)よりも余程(よつぽど)機嫌が可い様に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる様な気がして来て、心にも無い事を一口言へば一口言ふだけ、胸が苛立つて来る。高い笑声(わらひごゑ)を残して、彼は遂に学校から飛び出した。

 モウ日暮近い頃であつた。

 自嘲の念は烈しく頭脳(あたま)を乱した。何故(なぜ)(あんな)(こと)を言つたらう? 莫迦な、モウ智恵子の顔を見ることが出来なくなつた! と彼は悔いた。何故モツと早く――吉野の来ないうちに言はなかつたらう

畜生奴(ちくしやうめ)! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張彼は女から享けた拒絶の恥辱(はぢ)を、全く打消すことが出来なかつた。よし、彼女(あのをんな)を免職させる様にしてやらうか! (いや)、それよりは()うかして吉野を追払はう!

 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋(ふなたばし)まで、国道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら帰るともなく帰つて来た。が、彼は人に顔を見られたくない。町端れから(また)引返して、今度は旧国道を門前寺村の方へ辿つた。

 月が上つた。

 途断(とぎれ)々々に、町へ来る近村の男女に会つた。彼は然しそれに気がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思出してゐた。

何有(なあに)! 知らん顔をしてゐればそれで済む。豈且(まさか)智恵子が言ひは為まい。」と彼は少し落着いて来た。

「然し、」と彼は(また)しても吉野が憎くなる。「アノ野郎()、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがつた!」

 信吾の(いか)りは(また)発した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思出して、遂に、頭髪(かみ)(かきむし)りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステツキを強く揮つて、自暴(やけ)にヒユウと空気を切つた。

『信吾(さん)!』

と女の声。彼は驚いた様に顔を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近いて来る。草履を穿いてるのか足音がしない。

『信吾(さん)!』と富江は(また)呼んだ。

『あ、神山(さん)でしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。

『マア、何処へ被行(いらつしや)るの?』

 答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴(やけ)に体を向直した。

『ハハヽヽ。何処へ行つたんです貴女こそ?』

『生徒の(うち)招待(よば)れて、門前寺の…………一人で散歩するなんて気が利かないぢやありませんか、貴方は!』

『貴女だつて一人ぢやないか!』

『ホヽヽ。()うして智恵子(さん)を誘つて上げなかつたの?』

莫迦(ばか)な!』

『あら、月夜の散歩にはハイカラ(さん)の手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 真箇(ほんと)に!』

『何を言ふんです。』と信吾は苛々(いらいら)しく言つた。

 そして、突然(いきなり)富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに来たんだ!』

『マア巧い事を!』と、富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。

 信吾は、女の余りに平気なのが癪に障つた。そして、不図怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。

 富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、

『私の手なんか駄目よ、信吾(さん)! 女の手の様ぢやないでせう?』

『…………』

『私は女ぢやないんですよ。』

『富江(さん)、』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』

『あ重い!』と言つたが逃げ様ともせぬ。そして、急に真面目な顔をして(じつ)と男の顔を見ながら、『真箇(ほんたう)よ、私石女(うまずめ)なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないでせう?』

 そして、袂を口にあてて急にホホヽヽと笑ひ出した。

 其夜信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舎に詰めてゐる。主婦(おかみ)や子供らは踊に行つて留守であつた。

 で、彼が(うち)へ帰つてくると、玄関の戸がモウ閉つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら(しきゐ)が高い様な気がして、可成(なるべく)音を立てぬ様にして入つた。

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