6話 小指の先
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そこへ杉村の部下が慌ただしく入って来た。彼は川口の麻酔の醒めるのを待ち、訊問する積りで、部下を築地の病院へ詰めきらせておいたのだった。
「杉村さん、川口氏はまだ麻酔がさめないんです。昏々と眠りつづけていて――、頗る憂慮すべき容態だそうです。医員達は非常に心配しています、家族の者も皆馳けつけて、病室に詰めきっているんです」
杉村は驚いて椅子を離れ、係長に会釈して、
「では、ちょっと、行って来ます」と云って、室を出ようとすると、出合頭に山本桂一が顔を出して、
「川口氏は只今息を引取りました。杉村さん、これでこの事件もやっと片附きましたね」と晴々した顔で二人の方を見て、
「謎の鍵を掴んでいたのは、川口氏でしたから――」
係長と杉村は顔を見合せたまま、黙っていた。山本は言葉を続けて、
「杉村さん、川口さんは今朝未明に入院したのだそうですよ」
「えッ、何だって?」
杉村は吃驚して訊き返した。病院に問い合せた時、確かに入院している、今、手術を終ったばかりだから、面会謝絶であると答えたので、それなり電話を断り、何日に入院したかという事はたしかめなかった、何という失策だったのだろう。
「川口氏はこの春も盲腸炎で入院したことがあるそうです。その時、再発したら直ぐ手術してくれと院長に頼んであったのです。だから突然飛び込んで来ても、別に怪しみもせず、早速手術室に伴れて行ったのでしょう。生憎院長はまだ来ていなかったので、外科の若い医者が代理に手術を行ったのだそうです」
「院長と故川口博士とは非常に親しかったそうだからね、その息子だ、それ位の我儘は許していたかも知れないな」と杉村が言った。
「我儘を通させるような親しい交際をしていたことが、結局一人息子の川口譲を殺してしまったんですよ」
「君の云うことはよく分らんな、もっと明瞭と言い給え」と係長が焦れッたそうに云った。
「一口に云えば、川口氏は盲腸炎だと偽って、嘘の容態を云い、医者を欺いて手術をさせたんです。彼は病院へ馳けつける前に、已に多量のカルモチンを嚥んでいた。それを知らずに、医者は手術のための麻酔剤をかけた、それだけだって危険だのに、腹まで割いたんだから堪りませんよ。つまり、川口氏は病院を死場所に選んで、自殺したんです」
「何故自殺したんだ?」
「その理由は川口氏が院長へ残した遺書によって明白となりました。彼は死場所に病院を使うことを非常にすまないと思った。幼い頃から可愛がってくれた院長や、その人の病院を傷つけることは実に忍びなかったが、彼としては他に方法がなかったのでしょう、それで自分の秘密を院長へだけ打ち明けて謝罪したのです。院長は川口氏の希望通り、遺書を焼き捨てたいのだが、世間へ知れないように、警察の方々だけで秘密に葬って下さるならばお見せしたいと云っています。私は読みましたから、ざっとお話し致しましょう」
と、彼は手帳に控えておいた文字を見ながら言葉を続けるのだった。
「川口は百合子と吉川とが過去に関係があったことを知ってから、日夜煩悶しつづけていたのです。昨日も余り憂鬱なのでドラゴンへでも遊びに行こうと思い、その近くまで来ると、向うから睦じそうに百合子と吉川がやって来るんです」
「そこまでは美佐子という女給が申立てている」と杉村が言った。
「両人は間が悪るかったと見え、頻りに一緒にドライヴしようと誘ったが、気が進まないので、僕が奢ってやるから何か食べようじゃないか、とレストランへ入り、食事をし、ビールを飲んだ。心中面白くない二人の男はやたらに飲んだのでかなり酔払っていた。そこを出ると百合子がまたすすめるので、遂々三人一緒に自動車に乗ったが、運転台にいる吉川が自棄にハンドルをきり、無茶苦茶にスピードを出すので、車体は烈しく動揺し、危険だったので、乱暴な真似は止せ、そんな運転のしかたがあるか。と川口が罵ったのが機会となり、二人は口論を始め、遂いに恐しい格闘になりました。吉川は短刀をぬいて向って来たが、力の強い柔道四段の彼には迚も敵いません。忽ち短刀はもぎ取られ、それで心臓を突き刺されたのです。吉川は苦しまぎれに川口に噛みつき、小指の先を喰いちぎった、それは解剖した時、吉川の口中から出ました」
「確かに、それは川口の指先かね?」
「左の小指の腹です。川口は急性盲腸炎の苦しさに堪えかねて、指まで噛み切ったと医者は言っていましたが――」と言って、話をもとへ戻し、
「余りにも恐しいその場の光景に、百合子は気を失ってしまいました。二三十分後、ぽっかりと眼を開いたが、その時はもう吉川は死んでいた。それを見ると彼女は急に可哀想になり、死体に取り縋って泣き出しました。それを凝と川口は見ていた。やはり彼女は吉川を愛していたんだ、自分は欺された、と思うと口惜しさが一時に込み上げてきて、目の先が真暗になり、前後の考えもなく夢中で飛びかかって、百合子の首を締めつけました。ぐったりとなった彼女を、彼の腕の中に見たが、少しも可哀想だとは思わなかった、自分の心を裏切った女! 彼は憤りの眼で美しい死顔を眺めた、百合子も憎いが、重ね重ね自分を欺いた初子は一層憎かった。川口はハンドルを握って、二つの死体を乗せた自動車を運転しながら、夜の街を当なく彷徨いました。恰度その時、どこかの時計が午前二時を打ちました」
「すると、三人がドラゴンの前で一緒になってから三時間ほど経ちますね」と杉村が言った。
「正確に云えば三時間と何十分だ」
「そうです」と山本は首肯いて、
「それから川口は、死体の始末をどうしたものだろうと考えました。そのうちにふと頭に浮んだのは、吉川を初子の部屋に持ち込んで、彼女が殺したように見せかけることでした。一時にせよ、嫌疑がかかるのは痛快だ、彼女への復讐にはまたとない、いい思いつきだ、面白い、嘸ぞ迷惑するだろうと思うと迚も愉快でした。そこで自動車をアパートへ乗りつけ、力の強い彼は吉川を引担いで、彼女が閉め忘れて出た窓から入りました。彼はまた考えた、自分への疑いを避けるためには他殺より自殺の方がいいと思い、風呂敷に包んで吉川も知っているはずですから水兵結びにしました。桃色のリボンは水兵結びに用いたように故意と握らせておいたんです。
さて、今度は百合子の死体です、どこへ送りつけようかと運転しているうちに、ガソリンがなくなり、已むなく丸ノ内で自動車ごと棄てたのでした。
彼も人間二人を殺害したのですから、生きている気持ちはありませんでした。しかし、なまなか自殺をして家名を汚すような事があっては申訳ない、彼は考えぬいた揚句、一つの名案を、――少なくとも彼自身はそれを名案だと思ったのですが、――思いつきました。それは偽盲腸炎になって手術をして命をとってもらうことでした。そこで予め多量のカルモチンを嚥んで入院しました。よもやカルモチンを嚥んで来たとは思いませんから、医者はそのうえに麻酔剤をかけて手術にかかった。川口のこの考えは美事に成功しました。彼は眠り続けたまま息を引き取ったのです。これだけ考えてやったのに、ただ一つ大切なことを忘れていました。それは死者の口中に残した小指の先でした」