10話 雨月物語 03 校注 雨月物語(10)
読み方を変える
吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)
二七八賤しき軒にかがまりて、生けるここちもせぬを、翁、豊雄にむかひ、熟二七九そこの面を見るに、此の二八〇隠神のために悩まされ給ふが、吾救はずばつひに命をも失ひつべし。後よく慎み給へといふ。豊雄地に額着て、此の事の始めよりかたり出でて、猶二八一命得させ給へとて、恐れみ敬ひて願ふ。翁、さればこそ、此の邪神は年経たる《をろち》なり。かれが性は婬なる物にて、二八二牛と孳みては麟を生み、馬とあひては竜馬を生むといへり。二八三此の魅はせつるも、はたそこの秀麗に二八四けたると見えたり。かくまで執ねきを、よく慎み給はずば、おそらくは命を失ひ給ふべしといふに、人々いよよ恐れ惑ひつつ、翁を崇まへて、二八五遠津神にこそと拝みあへり。翁打ち笑みて、おのれは神にもあらず。二八六大倭の神社に仕へまつる当麻の酒人といふ翁なり。二八七道の程見たててまゐらせん。いざ給へとて出でたてば、人々後につきて帰り来る。
明の日二八八大倭の郷にいきて、翁が二八九恵を謝し、且二九〇美濃絹三疋、二九一筑紫綿二屯を遺り来り、猶此の妖災の二九二身禊し給へとつつしみて願ふ。翁これを納めて、二九三祝部らにわかちあたへ、自は一疋一屯をもとどめずして、豊雄にむかひ、二九四畜《なんぢ》が秀麗に《たは》けて二九五を纏ふ。又畜が仮の化に魅はされて二九六丈夫心なし。今より二九七雄気してよく心を静まりまさば、此らの邪神を逐はんに翁が力をもかり給はじ。ゆめゆめ心を静まりませとて、実やかに覚しぬ。豊雄夢のさめたるここちに、二九八礼言尽きずして帰り来る。金忠にむかひて、此の年月畜に魅はされしは、己が心の正しからぬなりし。親兄の孝をもなさで、君が家の二九九羈ならんは三〇〇由縁なし。御恵いとかたじけなけれど、又も参りなんとて、紀の国に帰りける。
父母、太郎夫婦、此の恐ろしかりつる事を聞きて、いよよ豊雄が過ならぬを憐み、かつは妖怪の執ねきを恐れける。かくて三〇一鰥にてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。三〇二芝の里に芝の庄司なるものあり。女子一人もてりしを、三〇三大内の三〇四采女にまゐらせてありしが、此の度いとま申し給はり、此の豊雄を聟がねにとて、媒氏をもて大宅が許へいひ納るる。よき事なりて即て三〇五因をなしける。かくて都へも迎の人を登せしかば、此の采女富子なるもの、よろこびて帰り来る。年来の大宮仕へに馴れこしかば、万の行儀よりして、姿なども花やぎ勝りけり。豊雄ここに迎へられて見るに、此の富子がかたちいとよく、三〇六万心に足ひぬるに、かの蛇が懸想せしことも三〇七おろおろおもひ出づるなるべし。はじめの夜は事なければ書かず。
二日の夜、よきほどの酔ごこちにて、年来の大内住に、辺鄙の人は三〇八はたうるさくまさん。三〇九かの御わたりにては、何の三一〇中将宰相の君などいふに三一一添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれなど戯るるに、富子三一二即て面をあげて、三一三古き契を忘れ給ひて、かく三一四ことなる事なき人を三一五時めかし給ふこそ、三一六こなたよりまして悪くあれといふは、姿こそかはれ、正しく真女子が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、三一七吾が君な怪しみ給ひそ。三一八海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも、三一九さるべき縁のあれば又もあひ見奉るものを、三二〇他し人のいふことをまことしくおぼして、強に遠ざけ給はんには、恨み報いなん。紀路の山々さばかり高くとも、君が血をもて峯より谷に灌ぎくださん。三二一あたら御身をいたづらになし果て給ひそといふに、三二二只わななきにわななかれて、今や三二三とらるべきここちに三二四死に入りける。屏風のうしろより、吾が君いかに三二五むつかり給ふ。かうめでたき御契なるはとて出づるはまろやなり。見るに又胆を飛ばし、眼を閉ぢて伏向に臥す。三二六和めつ驚しつ、かはるがはる物うちいへど、只死に入りたるやうにて夜明けぬ。
芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。(原本十六丁裏、十七丁表の挿絵)
かくて閨房を免れ出でて、庄司にむかひ、かうかうの恐ろしき事あなり。これいかにして放けなん。よく計り給へと三二七いふも、背にや聞くらんと、声を小やかにしてかたる。庄司も妻も面を青くして嘆きまどひ、こはいかにすべき。ここに都の三二八鞍馬寺の僧の、年々熊野に詣づるが、きのふより此の三二九向岳の三三〇蘭若に宿りたり。いとも三三一験なる法師にて、凡そ三三二疫病、妖災、蝗などをもよく祈るよしにて、此の郷の人は貴みあへり。此の法師三三三請へてんとて、あわただしく三三四呼びつげるに、漸して来りぬ。しかじかのよしを語れば、此の法師鼻を高くして、これらの三三五蠱物らを捉らんは何の難き事にもあらじ。必ず三三六静まりおはせとやすげにいふに、人々心落ちゐぬ。法師まづ三三七雄黄をもとめて薬の水を調じ、小瓶に湛へて、かの閨房にむかふ。人々驚ぢ隠るるを、法師嘲みわらひて、老いたるも童も必ずそこにおはせ、此の《をろち》只今捉りて見せ奉らんとてすすみゆく。閨房の戸あくるを遅しと、かの蛇頭をさし出して法師にむかふ。此の頭三三八何ばかりの物ぞ。此の戸口に充満て、雪を積みたるよりも白く輝々しく、眼は鏡の如く、角は枯木の如、三尺余りの口を開き、紅の舌を吐いて、只一呑に飲むらん勢をなす。あなやと叫びて、三三九手にすゑし小瓶をもそこに打ちすてて、たつ足もなく、三四〇展転びはひ倒れて、からうじてのがれ来たり、人々にむかひ、あな恐ろし、三四一祟ります御神にてましますものを、など法師らが祈り奉らん。此の手足なくば、三四二はた命失ひてんといふいふ三四三絶え入りぬ。人々扶け起すれど、すべて面も肌も黒く赤く染めなしたるが如に、熱き事焚火に三四四手さすらんにひとし。毒気にあたりたると見えて、後は只三四五眼のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水灌ぎなどすれど、つひに死にける。これを見る人、いよよ三四六魂も身に添はぬ思ひして泣き惑ふ。
豊雄すこし三四七心を収めて、かく験なる法師だも祈り得ず、執ねく我を纏ふものから、三四八天地のあひだにあらんかぎりは三四九探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは三五〇実ならず。今は三五一人をもかたらはじ。三五二やすくおぼせとて閨房にゆくを、庄司の人々、こは物に狂ひ給ふかといへど、更に聞かず顔にかしこにゆく。戸を静かに明くれば、物の騒しき音もなくて、此の二人ぞむかひゐたる。富子、豊雄にむかひて、君三五三何の讐に我を捉へんとて人をかたらひ給ふ。此の後も仇をもて報い給はば、君が御身のみにあらじ、此の郷の人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひたすら三五四吾が貞操をうれしとおぼして、三五五徒々しき御心をなおぼしそと、いと三五六けさうじていふぞ三五七うたてかりき。豊雄いふは、世の諺にも聞ゆることあり。三五八人かならず虎を害する心なけれども、虎反りて人を傷る意ありとや。《なんぢ》、三五九人ならぬ心より、我を纏うて幾度かからきめを見するさへあるに、三六〇かりそめ言をだにも此の恐ろしき報いをなんいふは、いと三六一むくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、三六二ここにありて人々の嘆き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。三六三然て我をいづくにも連れゆけといへば、いと喜しげに点頭きをる。
又立ち出でて庄司にむかひ、かう三六四浅ましきものの添ひてあれば、ここにありて人々を苦しめ奉らんはいと三六五心なきことなり。只今暇給はらば、三六六娘子の命も恙なくおはすべしといふを、庄司更に肯けず、我三六七弓の本末をもしりながら、かく三六八いひがひなからんは、大宅の人々のおぼす心もはづかし。猶計較りなん。三六九小松原の三七〇道成寺に、三七一法海和尚とて貴き祈の師おはす。今は三七二老いて室の外にも出でずと聞けど、我が為には三七三いかにもいかにも捨て給はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道遥なれば夜なかばかりに蘭若に到る。老和尚三七四眼蔵をゐざり出でて、此の物がたりを聞きて、そは浅ましくおぼすべし。今は老朽ちて三七五験あるべくもおぼえ侍らねど、君が家の災を黙してやあらん。三七六まづおはせ。法師も即て詣でなんとて、三七七芥子の香にしみたる袈裟とり出でて、庄司にあたへ、畜を三七八やすくすかしよせて、これをもて頭に打ち《かづ》け、力を出して押しふせ給へ。手弱くあらばおそらくは逃げさらん。よく三七九念じて、よくなし給へと実やかに教ふ。庄司三八〇よろこぼひつつ馬を飛ばしてかへりぬ。
豊雄を密かに招きて、此の事よくしてよとて袈裟をあたふ。豊雄これを懐に隠して閨房にいき、庄司今はいとま三八一たびぬ、三八二いざたまへ、出で立ちなんといふ。いと喜しげにてあるを、此の袈裟とり出でてはやく打ち《かづ》け、三八三力をきはめて押しふせぬれば、あな苦し、《(なんぢ)》何とてかく三八四情なきぞ。しばしここ放せよかしといへど、猶力にまかせて押しふせぬ。法海和尚の輿やがて入り来る。庄司の人々に扶けられて三八五ここにいたり給ひ、口のうち三八六つぶつぶと念じ給ひつつ、豊雄を退けて、かの袈裟とりて見給へば、富子は三八七現なく伏したる上に、白き蛇の三尺あまりなる蟠りて動きだもせずてぞある。老和尚これを捉へて、徒弟が捧げたる三八八鉄鉢に納れ給ふ。猶三八九念じ給へば、屏風の背より、三九〇尺ばかりの小蛇はひ出づるを、三九一是をも捉りて鉢に納れ給ひ、かの袈裟をもてよく封じ給ひ、そがままに輿に乗らせ給へば、人々掌をあはせ涙を流して敬ひ奉る。
蘭若に帰り給ひて、三九二堂の前を深く掘らせて、鉢のままに埋めさせ、三九三永劫があひだ世に出ることを戒め給ふ。今猶三九四蛇が塚ありとかや。庄司が女子はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豊雄は命恙なしとなんかたりつたへける。