9話 雨月物語 03 校注 雨月物語(9)
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とよめるは、まこと四九けふのあはれなりける。此の家賤しけれど、おのれが親の五〇目かくる男なり。五一心ゆりて雨休め給へ。そもいづ地旅の御宿りとはし給ふ。御見送りせんも却りて無礼なれば、此の傘もて出で給へといふ。女、いと喜しき御心を五二聞え給ふ。五三其の御思ひに乾してまゐりなん。都のものにてもあらず、此の近き所に年来住みこし侍るが、けふなんよき日とて五四那智に詣で侍るを、暴なる雨の恐ろしさに、やどらせ給ふともしらで、五五わりなくも立ちよりて侍る。ここより遠からねば、此の小休に出で侍らんといふを、五六強に此の傘もていき給へ。五七何の便にも求めなん。雨は五八更に休みたりともなきを。さて御住ひはいづ方ぞ。是より五九使奉らんといへば、新宮の辺にて県の真女児が家はと尋ね給はれ。日も暮れなん。御恵のほどを六〇指戴きて帰りなんとて、傘とりて出づるを、六一見送りつも、あるじが蓑笠かりて家に帰りしかど、猶俤の六二露忘れがたく、しばしまどろむ暁の夢に、かの真女児が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造りなし、六三蔀おろし六四簾垂れこめて、ゆかしげに住みなしたり。真女子出迎ひて、御情わすれがたく待ち恋ひ奉る。此方に入らせ給へとて、奥の方にいざなひ、酒菓子種々と管待しつつ、喜しき酔ごこちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。六五現ならましかばと思ふ心の六六いそがしきに、朝食も打ち忘れて六七うかれ出でぬ。
新宮の郷に来て、県の真女子が家はと尋ぬるに、更にしりたる人なし。
六八午時かたぶくまで尋ね労ひたるに、かの鬟東の方よりあゆみ来る。豊雄見るより大いに喜び、六九娘子の家はいづくぞ。傘もとむとて尋ね来るといふ。鬟打ちゑみて、よくも来ませり。こなたに歩み給へとて、前に立ちてゆくゆく、幾ほどもなく、ここぞと聞ゆる所を見るに、門高く造りなし、家も大きなり。蔀おろし簾たれこめしまで、夢の裏に見しと露違はぬを、奇しと七〇思ふ思ふ門に入る。鬟走り入りて、七一おほがさの主詣で給ふを誘ひ奉るといへば、いづ方にますぞ、こち迎へませといひつつ立ち出づるは真女子なり。豊雄、七二ここに安倍の大人とまうすは、年来七三物学ぶ師にてます。彼所に詣づる便に、傘とりて帰るとて七四推して参りぬ。御住居見おきて侍れば、又こそ詣で来んといふを、真女子強にとどめて、七五まろや、七六努出し奉るなといへば、鬟立ちふたがりて、おほがさ強ひて恵ませ給ふならずや。其がむくいに強ひてとどめまゐらすとて、腰を押して七七南面の所に迎へける。板敷の間に七八床畳を設けて、七九几帳、八〇御厨子の飾、八一壁代の絵なども、皆古代のよき物にて、八二倫の人の住居ならず。真女子立ち出でて、故ありて八三人なき家とはなりぬれば、八四実やかなる御饗もえし奉らず。只八五薄酒一杯すすめ奉らんとて、八六高坏平坏の清らなるに、海の物山の物盛りならべて、八七瓶子土器《ささ》げて、まろや酌まゐる。豊雄また夢心して、さむるやと思へど、正に現なるを却りて奇しみゐたる。
客も主もともに酔ごこちなるとき、真女子杯をあげて、豊雄にむかひ、八八花精妙桜が枝の水に八九うつろひなす面に、春吹く風を九〇あやなし、梢九一たちぐく鶯の九二艶ある声していひ出づるは、九三面なきことのいはで病みなんも、九四いづれの神になき名負すらんかし。九五努徒なる言にな聞き給ひそ。故は都の生なるが、父にも母にもはやう離れまゐらせて、乳母の許に成長りしを、此の国の九六受領の下司県の何某に迎へられて伴ひ下りしははやく三とせになりぬ。夫は九七任はてぬ此の春、かりそめの病に死し給ひしかば、便なき身とはなり侍る。都の乳母も尼になりて、行方なき修行に出でしと聞けば、九八彼方も又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ。きのふの雨のやどりの御恵みに、信ある御方にこそと九九おもふ物から、一〇〇今より後の齢をもて一〇一御宮仕へし奉らばやと願ふを、一〇二汚き物に捨て給はずば、此の一杯に一〇三千とせの契をはじめなんといふ。豊雄、もとよりかかるをこそと一〇四乱心なる思ひ妻なれば、一〇五塒の鳥の飛び立つばかりには思へど、一〇六おのが世ならぬ身を顧れば、親兄弟のゆるしなき事をと、かつ喜しみ、且恐れみて、頓に答ふべき詞なきを、真女児一〇七わびしがりて、女の浅き心より、一〇八嗚呼なる事をいひ出でて、一〇九帰るべき道なきこそ面なけれ。かう浅ましき身を海にも没らで、人の御心を煩はし奉るは罪深きこと。今の詞は徒ならねども、只酔ごこちの一一〇狂言におぼしとりて、ここの海にすて給へかしといふ。
豊雄、はじめより都人の貴なる御方とは見奉るこそ一一一賢かりき。一一二鯨よる浜に生立ちし身の、かく喜しきこと一一三いつかは聞ゆべき。一一四即ての御答もせぬは、親兄に仕ふる身の、おのが物とては爪髪の外なし。何を一一五禄に迎へまゐらせん便もなければ、身の一一六徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼし耐へ給はば、いかにもいかにも後見し奉らん。一一七孔子さへ倒るる恋の山には、孝をも身をも忘れてといへば、いと喜しき御心を聞きまゐらするうへは、貧しくとも時々ここに一一八住ませ給へ。ここに前の夫の一一九二つなき宝にめで給ふ一二〇帯あり。これ常に帯かせ給へとてあたふるを見れば、金銀を飾りたる太刀の、一二一あやしきまで鍛うたる古代の物なりける。一二二物のはじめに辞みなんは一二三祥あしければとて、とりて納む。今夜はここに明させ給へとて、一二四あながちにとどむれど、まだ一二五赦なき旅寝は、親の一二六罪し給はん。明の夜よく一二七偽りて詣でなんとて出でぬ。其の夜も一二八寝ねがてに明けゆく。
太郎は一二九網子ととのふるとて、一三〇晨て起き出でて、豊雄が閨房の戸の間をふと見入れたるに、消え残りたる灯火の影に、輝々しき太刀を枕に置きて臥したり。あやし。一三一いづちより求めぬらんと一三二おぼつかなくて、戸をあららかに明くる音に目さめぬ。太郎があるを見て、召し給ふかといへば、輝々しき物を枕に置きしは何ぞ。価貴き物は海人の家にふさはしからず。父の見給はばいかに罪し給はんといふ。豊雄、一三三財を費して買ひたるにもあらず。きのふ一三四人の得させしをここに置きしなり。太郎、いかでさる宝をくるる人此の辺にあるべき。一三五あなむつかしの唐言書きたる物を買ひたむるさへ、一三六世の費なりと思へど、父の黙りておはすれば、今までもいはざるなり。其の太刀帯びて一三七大宮の祭を《ね》るやらん。一三八いかに物に狂ふぞ、といふ声の高きに、父聞きつけて、一三九徒者が何事をか仕出でつる。ここにつれ来よ太郎と呼ぶに、いづちにて求めぬらん、軍将等の佩き給ふべき輝々しき物を買ひたるはよからぬ事、御目のあたりに召して一四〇問ひあきらめ給へ。おのれは網子どもの一四一怠るらんと云ひ捨てて出でぬ。
母、豊雄を召して、さる物一四二何の料に買ひつるぞ。米も銭も太郎が物なり。一四三吾主が物とて何をか持ちたる。日来は一四四為すままにおきつるを、かくて太郎に悪まれなば、天地の中に何国に住むらん。賢き事をも学びたる者が、など是ほどの事一四五わいためぬぞといふ。豊雄、実に買ひたる物にあらず。一四六さる由縁有りて人の得させしを、兄の見咎めてかくのたまふなり。父、何の一四七誉ありてさる宝をば人のくれたるぞ。一四八更におぼつかなき事。只今所縁かたり出でよと罵る。豊雄、此の事只今は一四九面俯なり。人伝に申し出で侍らんといへば、親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと声あららかなるを、太郎の嫁の一五〇刀自傍にありて、此の事一五一愚なりとも聞き侍らん。入らせ給へと宥むるに、一五二つい立ちていりぬ。
豊雄、刀自にむかひて、兄の見咎め給はずとも、密に姉君を一五三かたらひてんと思ひ設けつるに、一五四速く責まるる事よ。一五五かうかうの人の女のはかなくてあるが、後見してよとて賜へるなり。一五六己が世しらぬ身の、御赦さへなき事は重き一五七勘当なるべければ、今さら悔ゆるばかりなるを、姉君よく憐み給へといふ。刀自打ち笑みて、男子のひとり寝し給ふが、兼ねて一五八いとほしかりつるに、いとよき事ぞ。愚なりともよく一五九いひとり侍らんとて、其の夜太郎に、かうかうの事なるは幸におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へといふ。太郎眉を顰めて、あやし、此の国の守の下司に県の何某と云ふ人を聞かず。我が家一六〇保正なればさる人の亡り給ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀ここにとりて来よといふに、刀自やがて携へ来るを、よくよく見をはりて、長嘘をつぎつつもいふは、ここに恐ろしき事あり。近来都の大臣殿の一六一御願の事みたしめ給ひて、一六二権現におほくの宝を奉り給ふ。さるに此の神宝ども、一六三御宝蔵の中にて頓に失せしとて、一六四大宮司より国の守に訴へ出で給ふ。守、此の賊を探り捕ふために、一六五助の君文室の広之、大宮司の館に来て、今専に此の事を一六六はかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀一六七いかさまにも下司などの帯くべき物にあらず。猶父に見せ奉らんとて、一六八御前に持ちいきて、かうかうの恐ろしき事の一六九あなるは、いかが計らひ申さんといふ。父面を青くして、こは一七〇浅ましき事の出できつるかな。日来は一七一一毛をもぬかざるが、何の報にてかう良からぬ心や出できぬらん。一七二他よりあらはれなば此の家をも絶されん。祖の為子孫の為には、不孝の子一人惜しからじ。明は訴へ出でよといふ。
太郎、夜の明くるを待ちて、大宮司の舘に来り、しかじかのよしを申し出でて、此の太刀を見せ奉るに、大宮司驚きて、是なん大臣殿の献物なりといふに、助聞き給ひて、猶失せし物問ひあきらめん。召捕れとて、武士ら十人ばかり、太郎を前にたててゆく。豊雄、かかる事をもしらで書見ゐたるを、武士ら押しかかりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞き入れず縛めぬ。父母、太郎夫婦も、今は一七三浅ましと嘆きまどふばかりなり。一七四公庁より召し給ふ、疾くあゆめとて、一七五中にとりこめて舘に追ひもてゆく。助、豊雄をにらまへて、《なんぢ》神宝を盗みとりしは例なき一七六国津罪なり。猶種々の財は一七七いづちに隠したる。明らかにまうせといふ。豊雄一七八漸此の事を覚り、涙を流して、おのれ一七九更に盗をなさず。かうかうの事にて、県の何某の女が、前の夫の帯びたるなりとて得させしなり。今にもかの女召して、おのれが罪なき事を覚らせ給へ。助いよよ怒りて、我が下司に県の姓を名のる者ある事なし。かく偽るは刑ますます大なり。豊雄、かく捕はれていつまで偽るべき。一八〇あはれかの女召して問はせ給へ。助、武士らに向ひて、県の真女子が家はいづくなるぞ。一八一渠を押して捕へ来れといふ。
武士らかしこまりて、又豊雄を押したてて彼所に行きて見るに、厳しく造りなせし門の柱も朽ちくさり、軒の瓦も大かたは砕けおちて、一八二草しのぶ生ひさがり、人住むとは見えず。豊雄是を見て、只一八三あきれにあきれゐたる。武士らかけ廻りて、一八四ちかきとなりを召しあつむ。一八五木伐る老、一八六米かつ男ら、恐れ惑ひて一八七跪る。武士他らにむかひて、此の家何者が住みしぞ。県の何某が女のここにあるはまことかといふに、鍛冶の翁はひ出でて、さる人の名は一八八かけてもうけたまはらず。此の家三とせばかり前までは、村主の何某といふ人の、一八九賑はしくて住み侍るが、一九〇筑紫に商物積みてくだりし、其の船行方なくなりて後は、家に残る人も散々になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、此の男のきのふここに入りて、漸して帰りしを奇しとて、此の一九一漆師の老がまうされしといふに、一九二さもあれ、よく見極めて殿に申さんとて、門押しひらきて入る。
家は外よりも荒れまさりけり。なほ奥の方に進みゆく。前栽広く造りなしたり。池は水あせて水草も皆枯れ、一九三野ら藪生ひ一九四かたぶきたる中に、大きなる松の吹き倒れたるぞ物すざまし。客殿の格子戸をひらけば、腥き風の一九五さと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々後にしりぞく。豊雄只一九六声を呑みて嘆きゐる。武士の中に巨勢の熊檮なる者、一九七胆ふとき男にて、人々我が後に従きて来れとて、一九八板敷をあららかに踏みて進みゆく。塵は一寸ばかり積りたり。鼠の糞一九九ひりちらしたる中に、古き二〇〇帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞ座る。熊檮、女にむかひて、国の守の召しつるぞ、急ぎまゐれといへど、答もせであるを、近く進みて捕ふとせしに、忽ち地も裂くるばかりの二〇一霹靂鳴響くに、許多の人逃ぐる間もなくてそこに倒る。然て見るに、女はいづち行きけん見えずなりにけり。
此の床の上に輝々しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、二〇二狛錦、二〇三呉の綾、二〇四倭文、二〇五、楯、二〇六槍、二〇七靭、鍬の類、此の失せつる二〇八神宝なりき。武士らこれをとりもたせて、怪しかりつる事どもを詳に訴ふ。助も大宮司も妖怪のなせる事をさとりて、豊雄を責む事をゆるくす。されど二〇九当罪免れず、守の舘にわたされて牢裏に繋がる。大宅の父子多くの物を二一〇賄して罪を贖ふによりて、百日がほどに赦さるる事を得たり。かくて二一一世にたち接らんも面俯なり。姉の大和におはすを訪ひて、しばし彼所に住まんといふ。げにかう憂きめ見つる後は重き病をも得るものなり。二一二ゆきて月ごろを過せとて、人を添へて出でたたす。
二郎の姉が家は、二一三石榴市といふ所に、田辺の金忠といふ商人なりける。豊雄が訪ひ来るを喜び、かつ二一四月ごろの事どもをいとほしがりて、いついつまでもここに住めとて、二一五念頃に労りけり。年かはりて二月になりぬ。此の石榴市といふは、二一六泊瀬の寺ちかき所なりき。二一七仏の御中には泊瀬なんあらたなる事を、唐土までも聞えたるとて、都より辺鄙より詣づる人の、春はことに多かりけり。詣づる人は必ずここに宿れば、軒を並べて旅人をとどめける。
田辺が家は御明灯心の類を商ひぬれば、二一八所せく人の入りたちける中に、都の人の忍びの詣と見えて、いと二一九よろしき女一人、鬟一人、二二〇薫物もとむとてここに立ちよる。此の鬟豊雄を見て、二二一吾が君のここにいますはといふに、驚きて見れば、かの真女子、まろやなり。あな恐ろしとて内に隠るる。金忠夫婦、こは何ぞといへば、かの二二二鬼ここに逐ひ来る。あれに近寄り給ふなと二二三隠れ惑ふを、人々、そはいづくにと立ち騒ぐ。真女子入り来りて、人々あやしみ給ひそ。吾夫の君な恐れ給ひそ。二二四おのが心より罪に堕し奉る事の悲しさに、御有家もとめて、事の由縁をもかたり、二二五御心放せさせ奉らんとて、御住家尋ねまゐらせしに、かひありてあひ見奉る事の喜しさよ。あるじの君よく聞きわけて給へ。我もし怪しき物ならば、此の二二六人繁きわたりさへあるに、二二七かうのどかなる昼をいかにせん。二二八衣に縫目あり、日にむかへば影あり。此の二二九正しきことわりを思しわけて、御疑ひを解かせ給へ。
豊雄漸人ごこちして、《なんぢ》正しく人ならぬは、我捕はれて、武士らとともにいきて見れば、きのふにも似ず二三〇浅ましく荒果てて、まことに鬼の住むべき宿に一人居るを、人々ら捕へんとすれば、忽ち二三一青天霹靂を震うて、跡なく二三二かき消えぬるをまのあたり見つるに、又逐ひ来て何をかなす。すみやかに去れといふ。真女子涙を流して、まことにさこそおぼさんはことわりなれど、二三三妾が言をもしばし聞かせ給へ。君公庁に召され給ふと聞きしより、かねて憐をかけつる隣の翁をかたらひ、頓に二三四野らなる宿のさまをこしらへし。我を捕んずときに鳴神響かせしは、まろやが二三五計較りつるなり。其の後船もとめて難波の方に遁れしかど、御消息しらまほしく、二三六ここの御仏にたのみを懸けつるに、二三七二本の杉のしるしありて、二三八喜しき瀬にながれあふことは、ひとへに二三九大悲の御徳かうむりたてまつりしぞかし。種々の神宝は何とて女の盗み出すべき。前の夫の良からぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、二四〇思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとて、さめざめと泣く。
豊雄或は疑ひ、或は憐みて、かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦、真女子がことわりの明らかなるに、此の二四一女しきふるまひを見て、努疑ふ心もなく、豊雄のもの語りにては、世に恐ろしき事よと思ひしに、二四二さる例あるべき世にもあらずかし。はるばると二四三尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに、豊雄肯はずとも、我々とどめまゐらせんとて、一間なる所に迎へける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が二四四心をとりて、ひたすら嘆きたのみける。其の志の篤きに愛でて、豊雄をすすめてつひに婚儀をとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて、もとより容姿のよろしきを愛でよろこび、千とせをかけて契るには、二四五葛城や高間の山に夜々ごとにたつ雲も、二四六初瀬の寺の暁の鐘に雨収まりて、二四七只あひあふ事の遅きをなん恨みける。
三月にもなりぬ。金忠、豊雄夫婦にむかひて、都わたりには似るべうもあらねど、二四八さすがに紀路にはまさりぬらんかし。二四九名細の吉野は春はいとよき所なり。二五〇三船の山、二五一菜摘川、二五二常に見るとも飽かぬを、此の頃はいかにおもしろからん。二五三いざ給へ、出で立ちなんといふ。真女児うち笑みて、二五四よき人のよしと見給ひし所は、都の人も見ぬを恨に聞え侍るを、我が身稚きより、人おほき所、或は道の長手をあゆみては、必ず二五五気のぼりてくるしき病あれば、二五六従駕にえ出で立ち侍らぬぞいと憂けれ。二五七山土産必ず待ちこひ奉るといふを、そはあゆみなんこそ病も苦しからめ。二五八車こそもたらね、いかにもいかにも土は踏ませまゐらせじ。留り給はんは、豊雄のいかばかり二五九心もとなかりつらんとて、夫婦すすめたつに、豊雄も、かう二六〇たのもしくの給ふを、二六一道に倒るるともいかでかはと聞ゆるに、二六二不慮ながら出でたちぬ。人々二六三花やぎて出でぬれど、真女子が麗なるには似るべうもあらずぞ見えける。
何某の院はかねて二六四心よく聞えかはしければ、ここに訪ふ。主の僧迎へて、此の春は遅く詣で給ふことよ。花もなかばは散り過ぎて、二六五鶯の声もやや流るめれど、猶よき方に二六六しるべし侍らんとて、夕食いと清くして食はせける。二六七明けゆく空いたう霞みたるも、二六八晴れゆくままに見わたせば、此の院は高き所にて、ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさるる。山の鳥どもも二六九そこはかとなく囀りあひて、木草の花色々に咲きまじりたる、同じ山里ながら目さむるここちせらる。初詣には滝ある方こそ見所はおほかめれとて、彼方にしるべの人乞ひて出でたつ。谷を繞りて下りゆく。いにしへ二七〇行幸の宮ありし所は、二七一石はしる滝つせのむせび流るるに、ちひさき《あゆ》どもの水に逆ふなど、目もあやにおもしろし。二七二檜破子打ち散して喰ひつつあそぶ。
岩がねづたひに来る人あり。髪は二七三績麻を二七四わがねたる如くなれど、手足いと健やかなる翁なり。此の滝の下にあゆみ来る。人々を見てあやしげにまもりたるに、真女子もまろやも此の人を二七五背に見ぬふりなるを、翁、渠二人をよくまもりて、あやし、此の邪神、など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有るやとつぶやくを聞きて、此の二人忽ち躍りたちて、滝に飛び入ると見しが、水は大虚に湧きあがりて見えずなるほどに、雲摺る墨をうちこぼしたる如く、雨二七六篠を乱してふり来る。翁、人々の慌忙惑ふを二七七まつろへて人里にくだる。