野人生計事

1話 野人生計事

4,055字 約8分 2007年8月9日 公開

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     一 清閑

乱山堆裡結茅蘆(らんざんたいりばうろをむすび) 已共紅塵跡漸疎(すでにこうじんとともにあとやうやくそなり)

 莫問野人生計事(とふなかれやじんせいけいのこと) 窓前流水枕前書(さうぜんのりうすゐちんぜんのしよ)

 とは少時漢詩なるものを作らせられた時度たびお手本の役をつとめた李九齢(りきうれい)七絶(しちぜつ)である。今は子供心に感心したほど、名詩とも(なん)とも思つてゐない。乱山堆裡(らんざんたいり)茅蘆(ばうろ)を結んでゐても、恩給証書に貯金の通帳位(かよひちやうくらゐ)は持つてゐたのだらうと思つてゐる。

 しかし()(かく)李九齢(りきうれい)は窓前の流水と枕前の書とに悠悠たる清閑(せいかん)を領してゐる。その点は甚だ羨ましい。僕などは売文に餬口(ここう)する為に年中(そうばう)たる思ひをしてゐる。ゆうべも二時頃まで原稿を書き、やつと床へはひつたと思つたら、今度は電報に叩き起された。社命、僕にサンデイ毎日の随筆を書けと云ふ電報である。

 随筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である。古来の文人多しと(いへど)も、(いま)だ清閑さへ得ないうちに随筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人(こんじん)は(この今人と云ふ言葉は非常に狭い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)清閑を得ずにもさつさと随筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。(むし)ろ清閑を得ない為に手つとり早い随筆を書き飛ばすのである。

 在来の随筆は四種類である。或はもつとあるかも知れない。が、ゆうべ五時間しか寝ない現在の僕の頭によると、第一は感慨を述べたものである。第二は異聞(いぶん)を録したものである。第三は考証(かうしやう)を試みたものである。第四は芸術的小品である。かう云ふ四種類の随筆にレエゾン・デエトルを持たないと云ふものは滅多(めつた)にない。感慨は()(かく)思想を含んでゐる。異聞も異聞と云ふ以上は興味のあることに違ひない。考証も学問を借りない限り、手のつけられないのは(たしか)である。芸術的小品も――芸術的小品は問ふを待たない。

 しかしかう云ふ随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗(むやみ)に書けるものではない。(ここ)に於て()、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは(なん)であるか? 掛け値なしに筆に(したが)つたものである。純乎(じゆんこ)として純なる出たらめである。

 もし僕の言葉を疑ふならば、古人の随筆は(しばら)く問はず、まづ観潮楼偶記(くわんてうろうぐうき)を読み或は断腸亭雑(だんちやうていざつかう)を読み、次に月月の雑誌に出る随筆の大半と比べて見るがよい。後者の孟浪杜撰(まんらんづざん)なることは忽ち瞭然(りやうぜん)となるであらう。しかもこの新らしい随筆の作者は(かならず)しも庸愚(ようぐ)(ざい)ばかりではない。ちやんとした戯曲や小説の書ける(一例を挙げれば僕の如き)相当の才人もまじつてゐるのである。

 随筆を清閑の所産とすれば、清閑は(かね)の所産である。だから清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越(てうゑつ)しなければならない。これはどちらも絶望である。すると新しい随筆以外に、ほんものの随筆の生れるのもやはり絶望といふ(ほか)はない。

 李九齢(りきうれい)は「莫問野人生計事(とふなかれやじんせいけいのこと)」といつた。しかし僕は随筆を論ずるにも、清閑の所産たる随筆を論ずるにも、野人生計の事に及ばざるを得ない。(いはん)や今後もせち(がら)いことは度たび辯ぜずにはゐられないであらう。かたがた今度の随筆の題も野人生計の事とつけることにした。勿論これも清閑を待たずにさつさと書き上げる随筆である。もし幾分でも面白かつたとすれば、それは作者たる僕自身の偉い為と思つて頂きたい。もし又面白くなくなつたとしたら――それは僕に責任のない時代の罪だと思つて頂きたい。

     二 室生犀星

 室生犀星(むろふさいせい)金沢(かなざは)に帰つたのは二月(ふたつき)ばかり前のことである。

「どうも国へ帰りたくてね、丁度(ちやうど)脚気(かつけ)になつたやつが国の土を踏まないと、(なほ)らんと云ふやうなものだらうかね。」

 さう言つて帰つてしまつたのである。室生(むろふ)の陶器を愛する病は僕よりも膏肓(かうくわう)にはひつてゐる。(もつと)も御同様に貧乏だから、名のある茶器などは持つてゐない。しかし室生のコレクシヨンを見ると、ちやんと或趣味にまとまつてゐる。云はば白高麗(はくかうらい)画唐津(ゑからつ)も室生犀星を語つてゐる。これは当然とは云ふものの、(かならず)しも誰にでも出来るものではない。

 或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸(からくさ)の寂びた九谷(くたに)の鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云つた。

「これへは羊羹(やうかん)を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切(いつき)ればかり、まつ黒い羊羹(やうかん)を入れなさい。」

 室生はかう云ふ忠告さへせずには気のすまない神経を持つてゐるのである。

 或日又遊びに来た室生は僕の顔を見るが早いか、団子坂(だんござか)の或骨董屋(こつとうや)青磁(せいじ)硯屏(けんびやう)の出てゐることを話した。

「売らずに置けと云つて置いたからね、二三日(うち)にとつて来なさい。もし出かける(ひま)がなけりや、使(つかひ)でも(なん)でもやりなさい。」

 宛然(ゑんぜん)僕にその硯屏(けんびやう)を買ふ義務でもありさうな口吻(こうふん)である。しかし御意(ぎよい)通りに買つたことを(いま)だに後悔してゐないのは室生の為にも僕の為にも()(かく)欣懐(きんくわい)と云ふ(ほか)はない。

 室生はまだ陶器の(ほか)にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑたり、叡山苔(ゑいざんごけ)()はせたり、池を掘つたり、葡萄棚(ぶだうだな)を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を払つてゐる借家の庭に()らざる数寄(すき)()らしてゐるのである。

 或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絶えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の(ほか)に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。

「ああ、あれか、あれはあすこのつくばひへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い(くだ)をさして……」

 室生は澄まして説明した。室生の金沢へ帰る時、僕へかたみに贈つたものはかういふ因縁(いんねん)のあるつくばひである。

 僕は室生に別れた(のち)、全然さういふ風流と縁のない暮しをつづけてゐる。あの庭は少しも変つてゐない。庭の隅の枇杷(びは)の木は丁度(ちやうど)今寂しい花をつけてゐる。室生はいつ金沢からもう一度東京へ出て来るのかしら。

     三 キユウピツド

 浅草(あさくさ)といふ言葉は複雑である。たとへば(しば)とか麻布(あざぶ)とかいふ言葉は一つの観念を与へるのに過ぎない。しかし浅草といふ言葉は少くとも僕には三通(みとほ)りの観念を与へる言葉である。

 第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗(にぬ)りの伽藍(がらん)である。或はあの伽藍を中心にした五重塔(ごぢゆうのたふ)仁王門(にわうもん)である。これは今度の震災(しんさい)にも(さいはひ)と無事に焼残つた。今ごろは丹塗(にぬ)りの堂の前にも明るい銀杏(いてふ)黄葉(くわうえう)の中に、不相変(あひかはらず)(はと)が何十羽も大まはりに輪を(ゑが)いてゐることであらう。

 第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋(みせものごや)である。これは(ことごと)く焼野原になつた。

 第三に見える浅草はつつましい下町(したまち)の一部である。花川戸(はなかはど)山谷(さんや)駒形(こまかた)蔵前(くらまへ)――その(ほか)何処(どこ)でも差支(さしつか)へない。唯雨上(あまあが)りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈(ごしんとう)だの、花の(しぼ)んだ朝顔の鉢だのに「浅草」の作者久保田万太郎(くぼたまんたらう)君を感じられさへすれば()いのである。これも(また)今度の大地震(おおぢしん)は一望の焦土に変らせてしまつた。

 この三通りの浅草のうち、僕のもう少し低徊(ていくわい)したいのは、第二の浅草、――活動写真やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を並べてゐた浅草である。もし久保田万太郎君を第三の浅草の詩人とすれば、第二の浅草の詩人もない(わけ)ではない。谷崎潤一郎(たにざきじゆんいちらう)君もその一人(ひとり)である。室生犀星(むろふさいせい)君も(また)その一人である。が、僕はその(ほか)にもう一人の詩人を数へたい。といふのは佐藤惣之助(さとうそうのすけ)君である。僕はもう四五年(まへ)、確か雑誌「サンエス」に佐藤君の書いた散文を読んだ。それは僅か数(ペエジ)にオペラの楽屋を(ゑが)いたスケツチだつた。が、キユウピツドに(ふん)した無数の少女の廻り梯子(ばしご)(くだ)る光景は如何(いか)にも溌剌(はつらつ)としたものだつた。

 第二の浅草の記憶は沢山(たくさん)ある。その最も古いものは砂文字(すなもじ)の婆さんの記憶かも知れない。婆さんはいつも五色(ごしき)の砂に白井権八(しらゐごんぱち)小紫(こむらさき)()いた。砂の色は妙に曇つてゐたから、白井権八や小紫もやはりもの寂びた姿をしてゐた。それから長井兵助(ながゐひやうすけ)と称した。蝦蟇(がま)(あぶら)を売る居合抜(ゐあひぬ)きである。あの長い刀をかけた、――いや、かういふ昔の景色は先師夏目(なつめ)先生の「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」に書いてある以上、今更僕の悪文などは待たずとも()いのに違ひない。その後ろは水族館である、安本亀八(やすもとかめはち)活人形(いきにんぎやう)である、或は又珍世界のX光線である。

 更にずつと近い頃の記憶はカリガリ博士のフイルムである。(僕はあのフイルムの動いてゐるうちに、僕の持つてゐたステツキの()へかすかに糸を張り渡す一匹の蜘蛛(くも)を発見した。この蜘蛛は表現派のフイルムよりも、数等僕には気味の悪い印象を与へた覚えがある。)さもなければロシアの女曲馬師(きよくばし)である。さう云ふ記憶は今になつて見るとどれ一つ懐しさを与へないものはない。が、最も僕の心にはつきりと跡を残してゐるのは佐藤君の(ゑが)いた光景である。キユウピツドに(ふん)した無数の少女の廻り梯子(ばしご)(くだ)る光景である。

 僕も(また)或晩春の午後、或オペラの楽屋の廊下(らうか)に彼等の一群(いちぐん)を見たことがある。彼等は佐藤君の書いたやうに、ぞろぞろ廻り梯子(ばしご)を下つて行つた。薔薇(ばら)色の翼、金色(きんいろ)の弓、それから薄い水色の衣裳(いしやう)、――かう云ふ色彩を煙らせた、もの憂いパステルの心もちも佐藤君の散文の通りである。僕はマネジヤアのN君と彼等のおりるのを見下(みおろ)しながら、ふとその中のキユウピツドの一人(ひとり)(しを)れてゐるのを発見した。キユウピツドは十五か十六であらう。ちらりと見た顔は(ほほ)の落ちた、腺病質(せんびやうしつ)らしい細おもてである。僕はN君に話しかけた。

「あのキユウピツドは悄気(しよげ)てゐますね。舞台監督にでも叱られたやうですね。」

「どれ? ああ、あれですか? あれは失恋してゐるのですよ。」

 N君は無造作(むざうさ)に返事をした。

 このキユウピツドの出るオペラは喜歌劇だつたのに違ひない。しかし人生は喜歌劇にさへ、――今更そんなモオラルなどを持ち出す必要はないかも知れない。しかし()(かく)月桂(げつけい)薔薇(ばら)にフツト・ライトの光を受けた思ひ出の中の舞台には、その()もずつと影のやうにキユウピツドが一人(ひとり)失恋してゐる。……

(大正十三年一月)

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