点心

1話 点心

7,574字 約15分 2007年7月25日 公開

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     御降(おさが)

 今日(けふ)御降(おさが)りである。(もつと)歳事記(さいじき)(しら)べて見たら、二日(ふつか)は御降りと云はぬかも知れぬ。が蓬莱(ほうらい)を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き続けてゐる。舌に腫物(はれもの)が出来たと云ふが、鵞口瘡(がこうそう)にでもならねば()い。ぢつと炬燵(こたつ)に当りながら、「つづらふみ」を読んでゐても、心は何時(いつ)かその泣き声にとられてゐる事が度々ある。(わたし)の家は鶉居(じゆんきよ)ではない。娑婆(しやば)界の苦労は御降りの今日(けふ)も、遠慮なく私を悩ますのである。昔或御降りの座敷に、(あね)や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の(ほか)にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が(まじ)つてゐた。彼は其処(そこ)にゐた少女たちと、(ことごとく)仲好しの間がらだつた。だから羽根をつき落したものは、羽子板を譲る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子(ひやうし)か、彼のついた金羽根(きんばね)が、長押(なげ)しの(みぞ)に落ちこんでしまつた。彼は早速(さつそく)勝手から、大きな踏み台を運んで来た。さうしてその上へ乗りながら、長押(なげ)しの金羽根を取り出さうとした。その時私は(せい)の低い彼が、踏み台の上に爪立(つまだ)つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み台を(わき)(はづ)してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下つた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ為に、私を叱つたり(すか)したりした。が、私はどうしても、踏み台を人手(ひとで)に渡さなかつた。彼は少時(しばらく)下つてゐた(のち)、両手の痛みに堪へ兼たのか、とうとう大声に泣き始めた。して見れば御降(おさが)りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬(しつと)なぞと云ふ娑婆(しやば)界の苦労はあつたのである。私に泣かされた少年は、その(のち)学問の修業はせずに、或会社へ(かよ)ふ事になつた。今ではもう四人の子の父親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる。彼の家の御降りはどうであらう。(一月二日)

御降(おさが)りや竹ふかぶかと町の空

     夏雄の事

 香取秀真(かとりほづま)氏の話によると、加納夏雄(かなふなつを)は生きてゐた時に、百円の月給を取つてゐた由。当時百円の月給取と云へば、勿論人に(うらや)まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年(とこ)()くと、(しばしば)枕もとへ一面に小判(こばん)大判(おほばん)を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子(でし)たちは、先生は()い年になつても、まだ貪心(たんしん)が去らないと見える、浅間(あさま)しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黄金(わうごん)を愛したのは、千葉勝(ちばかつ)紙幣(しへい)を愛したやうに、黄金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黄金の上に、何を(きざ)んで見ようかなぞと、仕事の工夫(くふう)をしてゐたのであらう。師匠に貪心(たんしん)があると思つたのは、思つた弟子(でし)の方が(いや)しさうである。香取(かとり)氏はかう病牀(びやうしやう)にある夏雄の心理を解釈した。(わたし)も恐らくさうだらうと思ふ。所がその()或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に賛成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩(いうたう)()めないのも、実は人生を観ずる為の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに()(かく)非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、実際さうか知らん。(一月六日)

     冥途

 この頃内田百間(うちだひやくけん)氏の「冥途(めいど)」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝(さんとうきやうでん)」「花火」「(くだん)」「土手(どて)」「豹」(とう)(ことごとく)夢を書いたものである。漱石(そうせき)先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託(かたく)した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの()い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛(ぢんぷん)の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底(たうてい)あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合(ぐあひ)には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、(とら)はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子(ひやうし)に以前出した短篇集を開いて見ると、何処(どこ)か流行に(とら)はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下(ぶか)には立たぬ位な、一人前(いちにんまへ)自惚(うぬぼ)れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処(どこ)か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅(ふせん)な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計(よけい)僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途(めいど)」の評判は()くないらしい。(たまたま)僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、(もつと)ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)

     長井代助

 我々と前後した年齢の人々には、漱石(そうせき)先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此処(ここ)に書きたいのは、あの小説の主人公長井代助(ながゐだいすけ)の性格に()れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ(どころ)か、(みづか)ら代助を気取つた人も、少くなかつた事と思ふ。しかしあの主人公は、我々の周囲を見廻しても、滅多(めつた)にゐなさうな人間である。「それから」が発表された当時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周囲にも大勢(おほぜい)ゐさうな、その意味では人生に忠実な性格描写(せいかくべうしや)が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模倣者(もはうしや)さへ生んだものは見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動揺させた性格である。が、如何(いか)に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多(めつた)にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、(かへ)つて模倣者さへ生んだのは、滅多(めつた)にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何処(どこ)にもゐぬと云ふ意味ではない。何処にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何処かにゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近(てぢか)に住んで居らぬ所に、《しやうけい》の意味を見出(みいだ)すのであらう。さうして又その主人公が、何処かに住んでゐさうな所に、《しやうけい》の可能性を見出(みいだ)すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける為には、この手近に住んでゐない、しかも何処かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派(りつぱ)にこの大任を果してゐる。今後の日本では(そもそも)誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日)

     嘲魔(てうま)

 (ひと)かどの英霊を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷(れいこく)な、観察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得(くわくとく)するだけに(とど)まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今(ここん)に独歩する所以(ゆゑん)は、かう云ふ壮厳な矛盾(むじゆん)の中にある。Sainte-Beuve のモリエエル論を読んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。(わたし)も私自身の(うち)に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔(てうま)(しりぞ)ける事は、私の顔が変へられないやうに、私自身には如何(いかん)とも出来ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も(また)メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも()みさうである。殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare や 〔E'cole des Femmes〕 を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者(かうふくしや)である。が、奸妻(かんさい)に悩まされ、病肺(びやうはい)に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役(みやく)の繁務に追はれながら、しかも(なほ)この嘲魔の毒手に、陥らなかつたモリエエルは、(いよいよ)羨望(せんばう)に価すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日)

     池西言水

「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗事物(じぶつ)を詠じて、()ならしむる者のみ。其事物如何(いか)雅致(がち)ある者なりとも、十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、(ほとん)()し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水(いけにしごんすゐ)は実に其作者なり。」これは正岡子規(まさをかしき)の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規(しき)はその(のち)に実例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「(をば)捨てん湯婆(たんぽ)(かん)せ星月夜」と「黒塚(くろづか)局女(つぼねをんな)のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、(なん)の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村(ぶそん)召波(せうは)も、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打(おてうち)の夫婦なりしを衣更(ころもが)へ」や「いねかしの男うれたき(きぬた)かな」も、やはり複雑な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「(かん)せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも(たしか)()()まるが、言水の特色を云ひ尽すには、余りに広すぎる(うら)みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人(ばんにん)が知らぬ一種の鬼気(きき)()りこんだ手際(てぎは)にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に(ただよ)無気味(ぶきみ)さである。(こころみ)に言水句集を開けば、この類の句は(ほか)にも多い。

御忌(ぎよき)の鐘皿割る罪や(あけ)の雲

つま猫の胸の火や()(にはたづみ)

夜桜に怪しやひとり須磨(すま)(あま)

蚊柱(かばしら)(いしずゑ)となる捨子(すてこ)かな

人魂(ひとだま)は消えて(こずゑ)燈籠(とうろ)かな

あさましや虫鳴く中に尼ひとり

火の影や人にて凄き網代守(あじろもり)

 句の佳否(かひ)(かかは)らず、これらの句が与へる感じは、蕪村(ぶそん)にもなければ召波(せうは)にもない。元禄(げんろく)でも言水(げんすゐ)一人(ひとり)である。自分は言水の作品中、(かならず)しもかう云ふ鬼趣(きしゆ)を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家(たいか)と特に趣を異にするのは、此処(ここ)にあると云はざるを得ないのである。言水通称は八郎兵衛(はちろべゑ)紫藤軒(しとうけん)と号した。享保(きやうはう)四年歿。行年(ぎやうねん)は七十三である。(一月十五日)

     托氏(とし)宗教小説

 今日(けふ)本郷(ほんがう)通りを歩いてゐたら、ふと托氏(とし)宗教小説と云う本を見つけた。(あたひ)を尋ねれば十五銭だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この(あひだ)渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八円五十銭と云ふのに辟易(へきえき)した。が、十五銭の本(くらゐ)は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速(さつそく)三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を(さら)してゐる。托氏(とし)宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒(くわうしよ)三十三年、香港(ホンコン)礼賢(れいけん)会(Rhenish Missionary Society)が、(きけつ)に付した本である。訳者は独逸(ドイツ)の宣教師 〔Gena:hr〕 と云ふ人である。但し翻訳に用ひた本は、Nisbet Bain の英訳だと云ふ、内容は名高い主奴(しゆど)論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂(ぶんきうだう)に頼みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者托爾斯泰(トルストイ)の写真があるのは、(なん)となしに愉快である。()い加減に(ペエジ)を繰つて見れば、牧色(ムジイク)加夫単(カフタン)沽未士(クミス)なぞと云ふ、西洋語の音訳が出て来るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな翻訳が上梓(じやうし)された事は原著者托氏(とし)も知つてゐたであらうか。香港(ホンコン)上海(シヤンハイ)の支那人の中には、偶然この本を読んだ為めに、生涯托氏(とし)を師と仰いだ、若干(じやくかん)の青年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の青年から、(はるか)に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。(わたし)は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を(たくま)しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日)

「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは(ほとん)ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手(ついで)に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日)

     印税

 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆(しよし)のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その(のち)彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗(むやみ)沢山(たくさん)の数字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに会つた時、この数字の意味を問ひ(ただ)すと、それは著者が十万部売切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。当時バルザツクが()めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一冊につき、定価の一割を支払ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた(わけ)である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遅れてゐると思へば()い。原稿成金なぞと云つても、日本では当分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)

     日米関係

 日米関係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米関係を云ひたいのである。日本に学ばれる外国語の中では、英吉利(イギリス)語程範囲の広いものはない。だから日本の文士たちも、大抵(たいてい)は英吉利語に手依(たよ)つてゐる。所が英吉利なり亜米利加(アメリカ)なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。何故(なぜ)と云へばホイツトマン以後、芸術的に荒蕪(くわうぶ)な亜米利加は、他国に天才を求めるからである。その関係上日本の文壇は、さ程(いちじる)しくないにしても、近年は亜米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の(ほか)に、英吉利語訳のイバネスは何処(どこ)を探しても見当らなかつた。)向う河岸(がし)の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利(イタリイ)文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文学ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土(アイルランド)文学が()(はや)されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米関係は、英吉利語文学が流行しないだけに存外(ぞんぐわい)見落され勝ちのやうである。(たまたま)丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙(スペイン)小説が沢山(たくさん)並べてあつた為め、こんな事を(しる)して置く気になつた。(二月一日)

     Ambroso Bierce

 日米関係を論じた次手(ついで)に、亜米利加(アメリカ)の作家を一人(ひとり)挙げよう。アムブロオズ・ビイアスは毛色の変つた作家である。(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再来と云ふのは、(たしか)にこの点でも当つてゐる。その上彼が好んで(ゑが)くのは、やはりポオと同じやうに、無気味(ぶきみ)な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利(イギリス)に Algernon Blackwood があるが、到底(たうてい)ビイアスの敵ではない。(二)彼は又批評や諷刺詩(ふうしし)を書くと、辛辣無双(しんらつむさう)な皮肉家である。現にレジンスキイと云ふ、確か波蘭土(ポオランド)系の詩人の如きは、彼の毒舌に翻弄(ほんろう)された結果自殺を遂げたと云はれてゐる。が、彼の批評を読めば、精到の妙はないにしても、犀利(さいり)の快には富んでゐると思ふ。(三)彼は同時代の作家の中では、最もコスモポリタンだつた。南北戦争に従軍した事もある。桑港(サンフランシスコ)の雑誌の主筆をした事もある。倫敦(ロンドン)に文を売つてゐた事もある。しかも彼は生きたか死んだか、(いまだ)行方(ゆくへ)が判然しない。中には彼の悪口(あくこう)が、余りに人を傷けた為め暗殺されたのだと云ふものもある。(四)彼の著書には十二巻の全集がある。短篇小説のみ読みたい人は In the Midst of Life 及び Can Such Things Be ? の二巻に()くが()い。私はこの二巻の(うち)に、特に前者を推したいのである。後者には佳作は一二しか見えぬ。(五)彼の評伝は一冊もない。オウ・ヘンリイ()に比べると、此処(ここ)でも彼は薄倖(はくかう)である。彼の事を多少知りたい人は、ケムブリツヂ版の History of American Literature 第二版の三八六―七頁、或は Cooper 著 Some American Story Tellers のビイアス論を見るが()い。前に書くのを忘れたが、年代は一八三八―一九一四? である。日本訳は一つも見えない。紹介もこれが最初であらう。(二月二日)

     むし

 (わたし)は「龍」と云ふ小説を書いた時、「虫の垂衣(たれぎぬ)をした女が一人(ひとり)建札(たてふだ)の前に立つてゐる」と書いた。その(のち)或人の注意によると、虫の垂衣(たれぎぬ)が行はれたのは、鎌倉時代以後ださうである。その証拠には源氏の初瀬詣(はつせまうで)(くだり)にも、虫の垂衣(たれぎぬ)の事は見えぬさうである。私はその人の注意に感謝した。が、私が虫の垂衣云々(うんぬん)の事を書いたのは、「信貴山縁起(しぎさんえんぎ)」「粉河寺縁起(こかはでらえんぎ)」なぞの画巻物(ゑまきもの)によつてゐたのである。だからさう云ふ注意を受けても、剛情(がうじやう)に自説を改めなかつた。その(のち)何かの次手(ついで)から、宮本勢助(みやもとせいすけ)氏にこの事を話すと、虫の垂衣は今昔物語(こんじやくものがたり)にも出てゐると云ふ事を教へられた。それから早速(さつそく)今昔を見ると、本朝(ほんてう)の部巻六(まきのろく)従鎮西上人依観音助遁賊難持命語(ちいぜいよりのぼるのひとくわんのんのたすけによりてぞくなんをのがれいのちをぢするものがたり)(うち)に、「(うた)(おぼ)すらむ。然れども昼牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に(もの)不思(おぼえず)(つみ)(ゆる)し給へ云々(うんぬん)」とある。私は心の()びるのを感じた。同時に自説は曲げずにゐても、矢張(やはり)文献に証拠のないのが、今までは多少寂しかつたのを知つた。(二月三日)

     蕗

 坂になった路の土が、()()のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊(いしころ)も少くない。両側(りやうがは)には古いこけら(ぶき)の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人(ふたり)の中学生は、その路をせかせか(のぼ)つて行つた。すると赤ん坊を背負(せお)つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、静に坂を(くだ)つて来た。少女は(そで)のまくれた手に、茎の長い(ふき)をかざしてゐる。(なん)の為めかと思つたら、それは真夏の日光が、すやすや寝入つた赤ん坊の顔へ、当らぬ為の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり静に通りすぎた。かすかに(ほほ)が日に焼けた、大様(おほやう)の顔だちの少女である。その顔が(いまだ)にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見(さとみ)君の所謂(いはゆる)一目惚(ひとめぼ)れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)

(大正十年)

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