「翌日又正午頃、里近く、瀧のある処で、昨日馬を売に行つた親仁の帰に逢ふた。
丁度私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送らうと思つて居た処で。
実を申すと此処へ来る途中でも其の事ばかり考へる、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかつたが、道が難渋なにつけても汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚も詰らない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだ処で何程のこともあるまい、活仏様ぢやといふてわあ/\拝まれゝば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
些とお話もいかゞぢやから、前刻はことを分けていひませなんだが、昨夜も白痴を寝かしつけると、婦人が又炉のある処へやつて来て、世の中へ苦労をして出やうより、夏は涼しく、冬は暖い、此の流と一所に私の傍においでなさいといふてくれるし、まだ/\其ばかりでは自身に魔が魅したやうぢやけれども、こゝに我身で我身に言訳が出来るといふのは、頻に婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従ふてものをいふことさへ忘れるやうな気がするといふは何たる事!
殊に今朝も東雲に袂を振切つて別れやうとすると、お名残惜しや、かやうな処に恁うやつて老朽ちる身の、再びお目にはかゝられまい、いさゝ小川の水となりとも、何処ぞで白桃の花が流れるのを御覧になつたら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれ/\になつたことゝ思へ、といつて、悄れながら、なほ親切に、道は唯此の谷川の流に沿ふて行きさへすれば、何れほど遠くても里に出らるゝ、目の下近く水が躍つて、瀧になつて落つるのを見たら、人家が近いたと心を安ずるやうに、と気をつけて孤家の見えなくなつた辺で指をしてくれた。
其手と手を取交はすには及ばずとも、傍につき添つて、朝夕の話対手、蕈の汁で御膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾つて、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑つたり、それから谷川で二人して、其時の婦人が裸体になつて、私が背中へ呼吸が通つて、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、其まゝ命が失せても可い!
瀧の水を見るにつけても耐へ難いのは其事であつた、いや、冷汗が流れますて。
其上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽が来て喜ばねばならぬ人家が近いたのも、高がよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞はれるのが関の山と、里へ入るのも厭になつたから、石の上へ膝を懸けた、丁度目の下にある瀧ぢやつた、これがさ、後に聞くと女夫瀧と言ふさうで。
真中に先づ鰐鮫が口をあいたやうな尖のとがつた黒い大巌が突出て居ると、上から流れて来る颯と瀬の早い谷川が、之に当つて両に岐れて、凡そ四丈ばかりの瀧になつて哄と落ちて、又暗碧に白布を織つて矢を射るやうに里へ出るのぢやが、其巌にせかれた方は六尺ばかり、之は川の一巾を裂いて糸も乱れず、一方は巾が狭い、三尺位、この下には雑多な岩が並ぶと見えて、ちら/\ちら/\と玉の簾を百千に砕いたやう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縺れつ。」