澄江堂雑記

2話 澄江堂雑記(2)

7,737字 約15分 2007年7月25日 公開

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 イバネス氏も日本へ来たさうである。滞在日数も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評伝には Camille Pitollet の 〔V.Blasco-Iba'n~ez, Ses romans et le roman de sa vie〕 などと云ふ本も流行してゐる。と云つて読んでゐる次第ではない。唯二三年(ぜん)の横文字の雑誌に紹介してあるのを読んだだけである。

「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を監獄(かんごく)に暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは囚人(しうじん)だつたこともある。度たび野蛮(やばん)な決闘の為に重傷を(かうむ)つたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉体的苦痛を()めてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、一方(いつぱう)には代議士に選挙されたこともある。土耳古(トルコ)のサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと鉅万(きよまん)の金を扱ふ実業家にもなつてゐた。亜米利加(アメリカ)では村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に実現出来ることを示す為である。紙とインクとに書き上げるよりも更に数等巧妙に実現出来ることを示す為である。」

 これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを読んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に実現してゐると云ふ気はしない。するのは唯小説の広告を実現してゐると云ふ気だけである。

     二十一 船長

 僕は上海(シヤンハイ)へ渡る途中、筑後丸(ちくごまる)の船長と話をした。政友会(せいいうくわい)の横暴とか、ロイド・ジヨオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。

「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御専門は政治経済ですか?」

 僕は()い加減に返事をした。

 僕等は又少時(しばらく)(のち)、ボルシエヴイズムか何かの話をし出した。僕は丁度(ちやうど)その月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、生憎(あいにく)船長は中央公論の読者ではなかつた。

「どうも中央公論も()いですが、――」

 船長は(にが)にがしさうに話しつづけた。

「小説を余り載せるものですから、つい買ひ(しぶ)つてしまふのです。あれだけはやめる(わけ)()かないものでせうか?」

 僕は出来るだけ情けない顔をした。

「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」

 爾来(じらい)僕は船長に格別の信用を博したやうである。

     二十二 相撲

「負けまじき相撲(すまふ)を寝ものがたりかな」とは名高い蕪村(ぶそん)の相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひの(ほか)異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば虚子(きよし)碧梧桐(へきごどう)両氏、近頃は又木村架空(きむらかくう)氏も「負けまじき」を未来の意味としてゐる。「明日(あす)の相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寝ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釈するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解釈してゐた。今もやはり過去の意味に解釈してゐる。「今日(けふ)は負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寝ものがたりにしてゐる。」――と云ふやうに解釈するものである。もし将来の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた上五(かみご)の下へ「寝ものがたりかな」と調子の延びた()めを持つて来はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ芸術的触角(しよくかく)の問題である。(もつと)も「蕪村句集講義」の中でも、子規居士(しきこじ)内藤鳴雪(ないとうめいせつ)氏とはやはり過去の意味に解釈してゐる。

     二十三 「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた(わけ)ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても(まと)まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。

 肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河(みかは)の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄(げんろく)四年に上梓(じやうし)された「猿蓑(さるみの)」の中に残つてゐる。

秋風(あきかぜ)やとても(すすき)はうごくはず 三河(みかは)子尹(しゐん)

 すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する(あひだ)に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

     二十四 猫

 これは「言海(げんかい)」の猫の説明である。

「ねこ、(中略)人家(ジンカ)()(チヒ)サキ(ケモノ)(ヒト)()(トコロ)ナリ。温柔(ヲンジウ)ニシテ()(ヤス)ク、(マタ)()(ネズミ)(トラ)フレバ()フ。(シカ)レドモ竊盗(セツタウ)(セイ)アリ。(カタチ)(トラ)()二尺(ニシヤク)()ラズ。(下略(げりやく))」

 成程(なるほど)猫は(ぜん)の上の刺身(さしみ)を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盗(せつたう)ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫(けふはく)の性あり、(てふ)は浮浪の性あり、(さめ)は殺人の性ありと云つても差支(さしつか)へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦(おほつきふみひこ)先生は少くとも鳥獣魚貝(ぎよばい)に対する誹謗(ひばう)の性を具へた老学者である。

     二十五 版数

 日本の版数は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相当の出版業者などは内務省への献本二冊を一版に数へてゐるらしい。たとひそれは《うそ》としても、今日(こんにち)のやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ広告を目安(めやす)に本を買つてゐる天下の読者は愚弄(ぐろう)されてゐるのも同じことである。

 (もつと)仏蘭西(フランス)の版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部と(さだ)めた上、版数も(いつは)らずに広告することは当然日本の出版業組合も(れいかう)して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。

     二十六 家

 早川孝太郎(はやかはかうたらう)氏は「三州横山話(さんしうよこやまばなし)」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。

 盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の()に何ごとあらば起せ、桁梁(けたはり)

 火の用心の歌、――「霜柱、氷の(はり)に雪の(けた)、雨のたる木に露の()き草」

 いづれも「(いへ)」に生命を感じた(いにし)へびとの面目(めんもく)を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも(のち)に生れるものは是等(これら)の歌を読んだにしろ、(なん)の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家(しやくや)住まひをするやうになつても、是等の歌は(まぼろし)のやうに山かげに散在する茅葺(かやぶき)屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。

 なほ次手(ついで)に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男(やなぎだくにを)氏の「遠野物語(とほのものがたり)」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区(こいしかはく)茗荷谷町(みやうがだにまち)五十二番地郷土研究社(きやうどけんきうしや)、定価は僅かに七十銭である。(ただ)し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた(わけ)ではない。

 付記 なほ四五十年(ぜん)の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、(はり)も聴け、明けの()つには起せ(おほ)びき」

     二十七 続「とても」

 肯定(こうてい)に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗(きれい)だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑(さるみの)」の中に出てゐることは「澄江堂雑記(ちようかうだうざつき)」(随筆集「百艸(ひやくさう)」の(なか))に辯じて置いた。その()島木赤彦(しまきあかひこ)さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。

秋風やとても(すすき)はうごくはず 三河(みかは)子尹(しゐん)

 しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬(ぞくしゆんかしうとう)」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。

市雛(いちびな)やとても(かず)ある顔貌(かほかたち) 化羊(くわやう)

 元禄(げんろく)子尹(しゐん)は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊(くわやう)何国(なんごく)の人であらうか。

     二十八 丈艸の事

 蕉門(せうもん)龍象(りゆうざう)の多いことは言ふを待たない。しかし誰が最も的的(てきてき)芭蕉(ばせを)衣鉢(いはつ)を伝へたかと言へば恐らくは内藤丈艸(ないとうぢやうさう)であらう。少くとも発句(ほつく)は蕉門中、誰もこの俳諧の新発知(しんぽち)ほど芭蕉の()びを(とら)へたものはない。近頃野田別天楼(のだべつてんろう)氏の編した「丈艸集(ぢやうさうしふ)」を一読し、殊にこの感を深うした。

  前書(まへがき)

木枕の(あか)伊吹(いぶき)にのこる雪

大原(おほはら)や蝶の出て舞ふおぼろ月

谷風や青田(あをた)(めぐ)(いほ)(きやく)

小屏風(こびやうぶ)に山里涼し腹の上

(いなづま)のさそひ出してや火とり虫

草芝を()づる(ほたる)羽音(はおと)かな

鶏頭(けいとう)の昼をうつすやぬり枕

病人と撞木(しゆもく)に寝たる夜寒(よさむ)かな

蜻蛉(とんぼう)の来ては蝿とる笠の(うち)

夜明(よあ)けまで雨吹く中や二つ星

(ほた)の火や(あかつき)がたの五六尺

 是等(これら)の句は(ただ)()びを得たと言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。几董輩(きとうはい)丈艸(ぢやうさう)(わら)つてゐるのは僣越(せんゑつ)(また)甚しいと思ふ。

     二十九 袈裟と盛遠

袈裟(けさ)盛遠(もりとほ)」と云ふ独白(どくはく)体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は(わたる)の義理と盛遠の(なさけ)とに迫られて、(みさほ)を守る為に死を決した烈女である。それを盛遠との(あひだ)に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果を(きた)すだらう。自分は君の為にこれを取らない。」

 が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも(なん)でもない。源平盛衰記(げんぺいせいすゐき)文覚発心(もんがくほつしん)(くだり)に、「はや(きた)つて女と共に()し居たり、狭夜(さよ)(やうやう)更け行きて云云(うんぬん)」と、ちやんと書いてある事である。

 それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あの(あはれ)()(ぢよ)主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に改竄(かいざん)した罪は、あの小説を書いた自分になくして、(むし)ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支(さしつか)へない。改竄(かいざん)するしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は《うそ》だと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて何時(いつ)でも、改竄者の焼印を押されようとするものである。

     三十 後世

 (わたし)知己(ちき)を百代の(のち)に待たうとしてゐるものではない。

 公衆の批判は、常に正鵠(せいこう)(しつ)しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何(いか)に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日(こんにち)及び昨日(さくじつ)の公衆にして()くの如くんば、明日(みやうにち)の公衆の批判と(いへど)(また)推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の(のち)よく砂と(きん)とを辨じ得るかどうか、私は遺憾(ゐかん)ながら疑ひなきを得ないのである。

 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日(こんにち)の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日(みやうにち)の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も(たしか)である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程(なるほど)ダンテの地獄の火は、今も(なほ)東方の豎子(じゆし)をして戦慄(せんりつ)せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との(あひだ)には、十四世紀の伊太利(イタリイ)なるものが雲霧(うんむ)の如くにたなびいてゐるではないか。

 (いは)んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍(ふへん)の美にして存するとするも、書を名山に蔵する(てい)の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。

 時時私は廿年の(のち)、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、(うづだか)(ほこり)(うづ)もれて、神田(かんだ)あたりの古本屋の(たな)の隅に、(むな)しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館(としよかん)にたつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しぎよ)(ゑさ)となつて、文字(もじ)さへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――

 私はしかしと思ふ。

 しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行(なんぎやう)かを読むと云ふ事がないであらうか。(さら)に虫の()い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。

 私は知己(ちき)を百代の(のち)に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が如何(いか)に私の信ずる所と矛盾(むじゆん)してゐるかも承知してゐる。

 けれども私は(なほ)想像する。落莫(らくばく)たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人(いちにん)の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、(おぼろ)げなりとも浮び上る私の蜃気楼(しんきろう)のある事を。

 私は私の()嗤笑(しせう)すべき賢達(けんたつ)の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と(いへど)も私の愚を笑ふ点にかけては(あへ)て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地(いくぢ)なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。

     三十一 「昔」

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか(なん)とか云ふと、(はなはだ)大袈裟(おほげさ)に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ(かへ)れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来(かみしも)をつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算(つもり)でお聴きを願ひたい。

 お伽噺(とぎばなし)を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を()いてゐた時に」とか「ベルトが糸を(つむ)いでゐた時に」とか書いてある。あれは何故(なぜ)であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文(ほんもん)に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺(とぎばなし)の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合(ぐあひ)が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば(すで)太古緬(たいこめんばく)の世だから、小指ほどの一寸法師(いつすんぼふし)が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別(かくべつ)矛盾(むじゆん)の感じが起らない。そこで(あらかじ)め前へ「昔々」と食付(くつつ)けたのである。

 所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を()るのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを(とら)へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日(こんにち)この日本に起つた事としては書きこなし(にく)い、もし(しひ)て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果折角(せつかく)のテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「今日(こんにち)この日本に起つた事としては書きこなし(にく)い」と云ふ(ことば)が示してゐるやうに、昔か(未来は(まれ)であろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするより(ほか)はない。僕の昔から材料を採つた小説は大抵(たいてい)この必要に迫られて、不自然の障碍(しやうがい)を避ける為に舞台を昔に求めたのである。

 しかしお伽噺(とぎばなし)と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には()かない。そこで(ほぼ)時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に(おい)て幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂(いはゆる)歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を目的(エンド)にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。

 (ついで)につけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬(しようけい)は持つてゐない。僕は平安朝(へいあんてう)に生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、(はるか)今日(こんにち)のこの日本に生れた事を難有(ありがた)く思つてゐる。

 それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには其外(そのほか)にすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔(その)ものの美しさが可也(かなり)影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔が(つと)めてゐる役割は、やはり「ベルトが糸を(つむ)いでゐた時に」である、或は「まだ動物が口を()いてゐた時に」である。

     三十二 徳川末期の文芸

 徳川末期の文芸は不真面目(ふまじめ)であると言はれてゐる。成程(なるほど)不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等通人(つうじん)(はら)の中では如何(いか)に人生の暗澹(あんたん)たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を回避(くわいひ)する為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落(しや)れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人(ひとり)、――たとへば宮武外骨(みやたけぐわいこつ)氏の山東京伝(さんとうきやうでん)を読んで見るが()い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹(あんたん)たることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。

 これは何も黄表紙(きべうし)だの洒落本(しやれぼん)だのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴(きよくていばきん)さへも彼の勧善懲悪(くわんぜんちやうあく)主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村(あへばくわうそん)氏の編した馬琴日記抄(とう)によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。森鴎外(もりおうぐわい)先生は確か馬琴日記抄の(ばつ)に「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王(せんわう)の道に信頼することが出来た」とか(なん)とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も(また)先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。

 若し《うそ》と云ふことから言へば、彼等の作品は《うそ》ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を(あざむ)いてゐたと言つても()い。しかし善や美に対する欣求(ごんぐ)は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西(フランス)のロココ王朝と共に実生活の隅隅(くまぐま)にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に(あふ)れた空気は如何(いか)にも美しい(勿論多少頽廃(たいはい)した)ものであらう。

 僕は所謂(いはゆる)江戸趣味に余り尊敬を持ってゐない。同時に又彼等の作品にも頭の(さが)らない一人(ひとり)である。しかし単に「浅薄(せんぱく)」の名のもとに彼等の作品を一笑し去るのは彼等の為に()(どく)であらう。若し彼等の「常談(じやうだん)」としたものを「真面目(まじめ)」と考へて見るとすれば、黄表紙(きべうし)洒落本(しやれぼん)もその中には幾多の問題を含んでゐる。僕等は彼等の作品に随喜(ずゐき)する人人にも賛成出来ない。けれども(また)彼等の作品を一笑してしまふ人人にもやはり軽軽(けいけい)に賛成出来ない。

(大正七年―十三年)

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