2話 続野人生計事(2)
読み方を変える
客 菊池寛氏の説によると、我我は今度の大地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種と尻端折りをするのに忙しさうだ。しかし実際さう云ふものだらうか?
主人 そりや実際さう云ふものだよ。
客 芸術上の玄人もかね? たとへば小説家とか、画家とか云ふ、――
主人 玄人はまあ素人より芸術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、実は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焔をどう描写しようなどと考へる豪傑はゐまいからね。
客 しかし昔の侍などは横腹を槍に貫かれながら、辞世の歌を咏んでゐるからね。
主人 あれは唯名誉の為だね。意識した芸術的衝動などは別のものだね。
客 ぢや我我の芸術的衝動はああ云ふ大変に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?
主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民の話を聞いて見給へ。思ひの外芸術的なものも沢山あるから。――元来芸術的に表現される為にはまづ一応芸術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず芸術的に心を働かせて来た訣だね。
客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり芸術的衝動を失うことになるだらうね?
主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の芸術的衝動だけは案外生死の瀬戸際にも最後の飛躍をするものだからね? 辞世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死などは大抵戯曲的或は俳優的衝動の――つまり俗に云ふ芝居気の表はれたものとも見られさうぢやないか?
客 ぢや芸術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?
主人 無意識の芸術的衝動はね。しかし意識した芸術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、………
客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛氏に全然賛成してゐるのかね?
主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、当り前だとしか思はないね。
客 なぜ?
主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種と云ふ時にや、何も彼も忘れてゐるんだからね。芸術も勿論忘れる筈ぢやないか? 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その為に芸術を軽んずる気などは起らないね。
客 ぢや芸術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね。
主人 莫迦を云ひ給へ。芸術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや芸術は人生の底へ一面深い根を張つてゐるんだ。――と云ふよりも寧ろ人生は芸術の芽に満ちた苗床なんだ。
客 すると「玉は砕けず」かね?
主人 玉は――さうさね。玉は或は砕けるかも知れない。しかし石は砕けないね。芸術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず芸術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。
客 ぢや君は問題になつた里見氏の説にも菊池氏の説にも部分的には反対だと云ふのかね。
主人 部分的には賛成だと云ふことにしたいね。何しろ両雄の挾み打ちを受けるのはいくら僕でも難渋だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用出来ぬ部分もあるね。
客 信用の出来ぬ部分がある?
主人 菊池氏は今度大向うからやんやと喝采される為には《うそ》が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。
十 梅花に対する感情
このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず
予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴツホの向日葵の写真版の今日もなほ愛翫せらるる、豈偶然の結果ならんや。(幸ひにGOGHをゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎むること勿れ。予はANDERSENをアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)
こは芸術を使命とするものには白日よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必しも容易の業にあらず。(否、絶対に独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨げざる可し。)殊に万人の詩に入ること屡なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春」の句を成すを思へ。蕪村の「暮春」を詠ぜし後、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。
梅花は予に伊勢物語の歌より春信の画に至る柔媚の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎に、まづ予の心を捉ふるものは支那に生じたる文人趣味なり。こは啻に予のみにあらず、大方の君子も亦然るが如し。(是に於て乎、中央公論記者も「梅花の賦」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做すは紅毛碧眼の詩人のことのみ。予等は梅花の一瓣にも、鶴を想ひ、初月を想ひ、空山を想ひ、野水を想ひ、断角を想ひ、書燈を想ひ、脩竹を想ひ、清霜を想ひ、羅浮を想ひ、仙妃を想ひ、林処士の風流を想はざる能はず。既に斯くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必しも怪しむを要せざるべし。(こは夙に永井荷風氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是予に今日この真理を盗用せしむる所以なり。)
予の梅花を見る毎に、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐偽師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを並称するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。
ひとり是のみに止らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度に風行せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已まん。然れどももし道楽以上の貼札を貼らんとするものあらば、山陽の画を観せしむるに若かず。日本外史は兎も角も一部の歴史小説なり。画に至つては呉か越か、畢につくね芋の山水のみ。更に又竹田の百活矣は如何。これをしも芸術と云ふ可くんば、安来節も芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河童晩帰の図を作り、山紫水明楼上の一粲を博せしやも亦知る可からず。且又彼等も聰明の人なり。豈彼等の道楽を彼等の芸術と混同せんや。予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談を大真面目に随喜し渇仰するの時、まづ噴飯に堪へざるものは彼等両人に外ならざるを。
梅花は予の軽蔑する文人趣味を強ひんとするものなり、下劣詩魔に魅せしめんとするものなり。予は孑然たる征旅の客の深山大沢を恐るるが如く、この梅花を恐れざる可からず。然れども思へ、征旅の客の踏破の快を想見するものも常に亦深山大沢なることを。予は梅花を見る毎に、峨眉の雪を望める徐霞客の如く、南極の星を仰げるシヤツクルトンの如く、鬱勃たる雄心をも禁ずること能はず。
灰捨てて白梅うるむ垣根かな
加ふるに凡兆の予等の為に夙に津頭を教ふるものあり。予の渡江に急ならんとする、何ぞ少年の客気のみならんや。
予は独自の眼光を以て容易に梅花を観難きが故に、愈独自の眼光を以て梅花を観んと欲するものなり。聊かパラドツクスを弄すれば、梅花に冷淡なること甚しきが故に、梅花に熱中すること甚しきものなり。高青邱の詩に云ふ。「瓊姿只合在瑤台 誰向江辺処処栽」又云ふ。「自去何郎無好詠 東風愁寂幾回開」真に梅花は仙人の令嬢か、金持の隠居の囲ひものに似たり。(後者は永井荷風氏の比喩なり。必しも前者と矛盾するものにあらず)予の文に至らずとせば、斯る美人に対する感慨を想へ。更に又汝の感慨にして唯ほれぼれとするのみなりとせば、已んぬるかな、汝も流俗のみ、済度す可からざる乾屎のみ。
十一 暗合
「お富の貞操」と云ふ小説を書いた時、お富は某氏夫人ではないかと尋ねられた人が三人ある。又あの小説の中に村上新三郎と云ふ乞食が出て来る。幕末に村上新五郎と云ふ奇傑がゐたが同一人かと尋ねられた人もある。しかしあの小説は架空の談だから、謂ふ所のモデルを用ゐたのではない。「お富の貞操」の登場人物はお富と乞食と二人だけである。その二人とも実在の人物に似てゐると云ふのは珍らしい暗合に違ひない。僕は以前藤野古白の句に「傀儡師日暮れて帰る羅生門」と云ふのを見、「傀儡師」「羅生門」共に僕の小説集の名だから、暗合の妙に驚いたことがある。然るに今又この暗合に出合つた。僕には暗合が祟つてゐるらしい。
十二 コレラ
コレラが流行るので思ひ出すのは、漱石先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢山食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一緒に、蚊帳の中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐瀉を始めたさうである。すると、先生のお父さんは「そら、コレラだ」と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒で掃き始めたさうである。勿論、先生の吐瀉したのは、豆と水とに祟られたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。
コレラの小説では何があるか。紅葉の「青葡萄」とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際立つた事件はないが、魚河岸の暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。
僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐いたり下痢をしたりする不風流な往生は厭やである。シヨウペンハウエルがコレラを恐がつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。
しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝染するといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難有さに、それをちやんと心得てゐるから、煮たものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服んだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三拝九拝するがいい。
十三 長崎
菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。
路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。
丸山の廓の見返り柳。
運河には石の眼鏡橋。橋には往来の麦稈帽子。――忽ち泳いで来る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。
南京寺の石段の蜥蜴。
中華民国の旗。煙を揚げる英吉利の船。「港をよろふ山の若葉に光さし……」顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロテイ。沈南蘋。永井荷風。
最後に「日本の聖母の寺」その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。光のない真昼の蝋燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。
山の空にはやはり菱形の凧。北原白秋の歌つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。
十四 東京田端
時雨に濡れた木木の梢。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠に何羽もぢつとしてゐる。
庭木に烏瓜の下つたのは鋳物師香取秀真の家。
竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒の家。
門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家。
ぬかるみの路を前にしたのは、俳人滝井折柴の家。
踏石に小笹をあしらつたのは、詩人室生犀星の家。
椎の木や銀杏の中にあるのは、――夕ぐれ燈籠に火のともるのは、茶屋天然自笑軒。
時雨の庭を塞いだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫檀の机の前に、一本八銭の葉巻を啣へながら、一游亭の鶏の画を眺めている。
(大正十一年―十三年)