5話 野分(5)
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四
「どこへ行く」と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹が黒ずんだ色のなかから、銀のような光りを秋の日に射返して、梢を離れる病葉は風なき折々行人の肩にかかる。足元には、ここかしこに枝を辞したる古い奴ががさついている。
色は様々である。鮮血を日に曝して、七日の間日ごとにその変化を葉裏に印して、注意なく一枚のなかに畳み込めたら、こんな色になるだろうと高柳君はさっきから眺めていた。血を連想した時高柳君は腋の下から何か冷たいものが襯衣に伝わるような気分がした。ごほんと取り締りのない咳を一つする。
形も様々である。火にあぶったかき餅の状は千差万別であるが、我も我もとみんな反り返る。桜の落葉もがさがさに反り返って、反り返ったまま吹く風に誘われて行く。水気のないものには未練も執着もない。飄々としてわが行末を覚束ない風に任せて平気なのは、死んだ後の祭りに、から騒ぎにはしゃぐ了簡かも知れぬ。風にめぐる落葉と攫われて行くかんな屑とは一種の気狂である。ただ死したるものの気狂である。高柳君は死と気狂とを自然界に点綴した時、瘠せた両肩を聳やかして、またごほんと云ううつろな咳を一つした。
高柳君はこの瞬間に中野君からつらまえられたのである。ふと気がついて見ると世は太平である。空は朗らかである。美しい着物をきた人が続々行く。相手は薄羅紗の外套に恰好のいい姿を包んで、顋の下に真珠の留針を輝かしている。――高柳君は相手の姿を見守ったなり黙っていた。
「どこへ行く」と青年は再び問うた。
「今図書館へ行った帰りだ」と相手はようやく答えた。
「また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい」
「近頃は喜劇の面をどこかへ遺失してしまった」
「また新橋の先まで探がしに行って、拳突を喰ったんじゃないか。つまらない」
「新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ」
「何を」
「何でも御やめだ」
「万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ」
「どこへ」
「今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行き手がないから、ちょうどいい。君行きたまえ」
「いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな」
「なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね」
「それじゃ余った方を送ってやればいいのに」
「実は君の所へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩らして、右の手に握ったままの、山羊の手袋で外套の胸をぴしゃぴしゃ敲き始めた。
「穿めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい」
「なに、今ちょっと隠袋から出したんだ」と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏に収めた。高柳君の癇癪はこれで少々治まったようである。
ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄の音が風を動かしてくる。両人は足早に道傍へ立ち退いた。黒塗のランドーの蓋を、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹帽が一つ、美しい紅いの日傘が一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋で馬車の後ろ影を指す。
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は教えた。
「よく、知ってるね。君はあの人の家来かい」
「家来じゃない」と中野君は真面目に弁解した。高柳君は腹のなかでまたちょっと愉快を覚えた。
「どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ」
「おくれると逢えないと云うのかね」
中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。
「とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊っちになってしまうんだよ」
打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。
「いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する」
相手は同情の笑を湛えながら半歩踵をめぐらしかけた。高柳君はまた打たれた。
「いこう」と単簡に降参する。彼が音楽会へ臨むのは生れてから、これが始めてである。
玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙殺されて、接待掛りの胸につけた、青いリボンを見失うほど込み合っていた。突き当りを右へ折れるのが上等で、左りへ曲がるのが並等である。下等はないそうだ。中野君は無論上等である。高柳君を顧みながら、こっちだよと、さも物馴れたさまに云う。今日に限って、特別に下等席を設けて貰って、そこへ自分だけ這入って聴いて見たいと一人坊っちの青年は、中野君のあとをつきながら階段を上ぼりつつ考えた。己れの右を上る人も、左りを上る人も、またあとからぞろぞろついて来るものも、皆異種類の動物で、わざと自分を包囲して、のっぴきさせず二階の大広間へ押し上げた上、あとから、慰み半分に手を拍って笑う策略のように思われた。後ろを振り向くと、下から緑りの滴たる束髪の脳巓が見える。コスメチックで奇麗な一直線を七分三分の割合に錬り出した頭蓋骨が見える。これらの頭が十も二十も重なり合って、もう高柳周作は一歩でも退く事はならぬとせり上がってくる。
楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂に攀じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺めが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥かの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼る擂鉢の底に近寄らねばならぬ。擂鉢の底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀が段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天井まで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。excuse me と云って、大きな異人が、高柳君を蔽いかぶせるようにして、一段下へ通り抜けた。駝鳥の白い毛が鼻の先にふらついて、品のいい香りがぷんとする。あとから、脳巓の禿げた大男が絹帽を大事そうに抱えて身を横にして女につきながら、二人を擦り抜ける。
「おい、あすこに椅子が二つ空いている」と物馴れた中野君は階段を横へ切れる。並んでいる人は席を立って二人を通す。自分だけであったら、誰も席を立ってくれるものはあるまいと高柳君は思った。
「大変な人だね」と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注がれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被っていたものはこの広い演奏場に自分一人である。
「外套は着ていてもいいのか」と中野君に聞いて見る。
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟を三寸ばかり颯と返したら、左の袖がするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領のあたりをつまんだと思ったら、裏を表てに、外套ははや畳まれて、椅子の背中を早くも隠した。下は仕立ておろしのフロックに、近頃流行る白いスリップが胴衣の胸開を沿うて細い筋を奇麗にあらわしている。高柳君はなるほどいい手際だと羨ましく眺めていた。中野君はどう云ものか容易に坐らない。片手を椅子の背に凭たせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨ましく感じた。
しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬に愛嬌の渦を浮かして、軽く何人にか会釈した。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨拶はどの辺に落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩じ向けて、斜めに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶を颯とひらめかして、細くうねる頸筋を今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅いは眼の縁を薄く染めて、潤った眼睫の奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。
わが穿く袴は小倉である。羽織は染めが剥げて、濁った色の上に垢が容赦なく日光を反射する。湯には五日前に這入ったぎりだ。襯衣を洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡に綺羅の香りを嗅ぎ、和楽の温かみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶けて流れて、かき鳴らす箏の線の細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双手を挙げながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五指を弾いて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。
「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。
「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。
一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得ている。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時拍手の音が急に梁を動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。
やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅の木が半分見えて後ろは遐かの空の国に入る。左手の碧りの窓掛けを洩れて、澄み切った秋の日が斜めに白い壁を明らかに照らす。
曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛たる空気の振動を鼓膜に聞いた。声にも色があると嬉しく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶の舞う様を眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。
拍手がまた盛に起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一人坊っちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲いている。高い高い鳶の空から、己れをこの窮屈な谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。
演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天井を見る。周囲一尺もあろうと思われる梁の六角形に削られたのが三本ほど、楽堂を竪に貫ぬいている、後ろはどこまで通っているか、頭を回らさないから分らぬ。所々に模様に崩した草花が、長い蔓と共に六角を絡んでいる。仰向いて見ていると広い御寺のなかへでも這入った心持になる。そうして黄色い声や青い声が、梁を纏う唐草のように、縺れ合って、天井から降ってくる。高柳君は無人の境に一人坊っちで佇んでいる。
三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰のごとき拍手のなかに包囲された一人坊っちとなる。包囲はなかなか已まぬ。演奏者が闥を排してわが室に入らんとする間際になおなお烈しくなった。ヴァイオリンを温かに右の腋下に護りたる演奏者は、ぐるりと戸側に体を回らして、薄紅葉を点じたる裾模様を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄える袖の影に受けとって、なよやかなる上躯を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸み聴いたのである。
演奏は喝采のどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥かの向うから熟柿のような色の暖かい太陽が、のっと上ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯斥しているように見える。たった一人の友達さえ肝心のところで無残の手をぱちぱち敲く。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その親があれば始からこんなにはならなかったろう。七つの時おやじは、どこかへ行ったなり帰って来ない。友達はそれから自分と遊ばなくなった。母に聞くと、おとっさんは今に帰る今に帰ると云った。母は帰らぬ父を、帰ると云ってだましたのである。その母は今でもいる。住み古るした家を引き払って、生れた町から三里の山奥に一人佗びしく暮らしている。卒業をすれば立派になって、東京へでも引き取るのが子の義務である。逃げて帰れば親子共餓えて死ななければならん。――たちまち拍手の声が一面に湧き返る。
「今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君」と中野君が聞く。
「うん」
「君面白くないか」
「そうさな」
「そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細かい友禅の着物を着ている女があるだろう。――あんな模様が近頃流行んだ。派出だろう」
「そうかなあ」
「君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見醒めがしない。うつくしくっていい」
「君のあれも、同じようなのを着ているね」
「え、そうかしら、何、ありゃ、いい加減に着ているんだろう」
「いい加減に着ていれば弁解になるのかい」
中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻眼鏡をかけて揉上を容赦なく、耳の上で剃り落した男が帳面を出してしきりに何か書いている。
「ありゃ、音楽の批評でもする男かな」と今度は高柳君が聞いた。
「どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画工だよ。いつでも来る男だがね、来るたんびに写生帖を持って来て、人の顔を写している」
「断わりなしにか」
「まあ、そうだろう」
「泥棒だね。顔泥棒だ」
中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十分である。廊下へ出るもの、喫煙に行くもの、用を足して帰るもの、が高柳君の眼に写る。女は小供の時見た、豊国の田舎源氏を一枚一枚はぐって行く時の心持である。男は芳年の書いた討ち入り当夜の義士が動いてるようだ。ただ自分が彼らの眼にどう写るであろうかと思うと、早く帰りたくなる。自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡蝶の花に戯むるるがごとく、浮藻の漣に靡くがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。
自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和煦の作用ではない粛殺の運行である。儼たる天命に制せられて、無条件に生を享けたる罪業を償わんがために働らくのである。頭から云えば胡蝶のごとく、かく翩々たる公衆のいずれを捕え来って比較されても、少しも恥かしいとは思わぬ。云いたき事、云うて人が点頭く事、云うて人が尊ぶ事はないから云わぬのではない。生活の競争にすべての時間を捧げて、云うべき機会を与えてくれぬからである。吾が云いたくて云われぬ事は、世が聞きたくても聞かれぬ事は、天がわが手を縛するからである。人がわが口を箝するからである。巨万の富をわれに与えて、一銭も使うなかれと命ぜられたる時は富なき昔しの心安きに帰る能わずして、命を下せる人を逆しまに詛わんとす。われは呪い死にに死なねばならぬか。――たちまち咽喉が塞がって、ごほんごほんと咳き入る。袂からハンケチを出して痰を取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙げると、肩から観世よりのように細い金鎖りを懸けて、朱に黄を交えた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨拶している。
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼を細めに云う。
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突を喰わす。
相手は驚ろいて黙ってしまった。途端に休憩後の演奏は始まる。「四葉の苜蓿花」とか云うものである。曲の続く間は高柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒めたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼を敲き大喇叭を吹くところであった。
やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉まれながらに門を出た。
日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳える松の林が緑りの色を微かに残して、しだいに黒い影に変って行く。
「寒くなったね」
高柳君の答は力の抜けた咳二つであった。
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖った肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏に墨汁を点じたような滴々の烏が乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。
「君二三日前に白井道也と云う人が来たぜ」
「道也先生?」
「だろうと思うのさ。余り沢山ある名じゃないから」
「聞いて見たかい」
「聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた」
「なぜ」
「だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか」
「追い出されましたかと聞かなくってもいいさ」
「しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ」
「そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい」
「なあに、江湖雑誌の記者だって、僕の所へ談話の筆記に来たのさ」
「君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね」
「なぜ」
「なぜって。――可哀想に、そんなに零落したかなあ。――君道也先生、どんな、服装をしていた」
「そうさ、あんまり立派じゃないね」
「立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた」
「そうさ。どのくらいとも云い悪いが、そうさ、まあ君ぐらいなところだろう」
「え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか」
「羽織はもう少し色が好いよ」
「袴は」
「袴は木綿じゃないが、その代りもっと皺苦茶だ」
「要するに僕と伯仲の間か」
「要するに君と伯仲の間だ」
「そうかなあ。――君、背の高い、ひょろ長い人だぜ」
「背の高い、顔の細長い人だ」
「じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分無慈悲なものだなあ。――君番地を知ってるだろう」
「番地は聞かなかった」
「聞かなかった?」
「うん。しかし江湖雑誌で聞けばすぐわかるさ。何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。どこかで白井道也と云う名を見たようだ」
音楽会の帰りの馬車や車は最前から絡繹として二人を後ろから追い越して夕暮を吾家へ急ぐ。勇ましく馳けて来た二梃の人力がまた追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄昏の白き靄のなかに、逼り来る暮色を弾き返すほどの目覚しき衣は由ある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。
「僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから」
「西洋軒で会食すると云う約束か」
「うんまあ、そうさ。じゃ失敬」と中野君は向へ歩き出す。高柳君は往来の真中へたった一人残された。
淋しい世の中を池の端へ下る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」
見上げたら西洋軒の二階に奇麗な花瓦斯がついていた。
五